このほど私のブログにある記事をすべて読んだという強者に出会いました。
彼から質問を受けたのですが、その質問というのが、ここ数回にわたって扱ってきた卓越性に関する話とも重なるので、よい機会だと思い、ここに取り上げることにしました。
質問
以前、カントの良心論と絡めて、道徳法則の導出に正解・不正解は存在しないという記事を書いたことがあります。
良心というものは、少なくとも主観的には誤りえないものであるというのがカントの立場でした。本人が道徳法則と見なしたものが道徳法則なのであり、その判断が誤りであり、そのため道徳的価値が認められないということは起こりえないのです。
このような前提を受け入れるとすると、以下のような疑問が沸いてくるかもしれません。
類似の問いには、自著『意志の倫理学 カントに学ぶ善への勇気』(第一部、十二節)においても扱っています。関心がある方はそちらを参照してください。
ここでは、そこで論じた仕方とは少し違った視点から、別の例に絡めて考察を加えてみたいと思います。
障害者施設で19人を殺害した、いわゆる「相模原障害者施設殺傷事件」の犯人(以下、犯人A)は逮捕後に、障害者はいない方が社会のためであるというような趣旨の発言をしています。
もし彼が本気で障害者は存在しない方が社会のためになると確信し、そのため障害者の命を奪うことを道徳法則と見なし、それを非利己的な善意志からなしたのであれば、カント的には、その行為は倫理的善であることになるのではないでしょうか。
このような議論自体に、嫌悪感や不快感を抱く人もいるかもしれません。
しかし、哲学や倫理学というのは、ときには考えたくない方向に考えを持って行ったり、不快に思うようなところまで掘り下げて考えたりしなければならないのです。「嫌だから」「不快だから」で思考停止してはならないのです。
後述することになりますが、カントはある種の思考停止を倫理的悪と見なすのです。
内容のおかしさ
一般の人々は、犯人Aの言い分に対して「おかしい」と感じると思います。私自身もおかしいと思います。
しかしながら、彼がどれだけおかしなことを言っていようとも、それはあくまで私たちの目から見ておかしいということであり、そのことは犯人Aが、自らの考え方のおかしさを自覚していたはずであることの材料や証拠にはならないのです。
彼が卓越性の面で、具体的には、思考力の面で著しく劣っていたとすれば、むしろ、だからこそ、自分の考え方が正しいものであると思い込んでしまい、カント的な意味で義務からなした可能性を認めざるをえなくなるのではないでしょうか。
手段のおかしさ
カント研究者のヨハネス・カイエンブルクは、理性の公的使用に関する著作のなかで、道徳法則というものは、公的に宣言しなければならないわけではないが、公的に宣言できるものでなければならないことを指摘しています。
もし自分の考え方の正当性を信じているのであれば、それを公にすることができるはずです。いや、むしろ、それは自分ひとりで抱え込むべきではなく、公にすべきであるとさえ言えると思います。
この点で犯人Aはどうだったのでしょうか。
彼は事件前に、介護施設の職員や同級生に、障害者に対する自分の考えを説いています。その点で、犯人Aはカイエンベルクの提示する要件はクリアしていることになります。彼は自らの考え方の正当性を信じていた可能性が高いように見えます。
ただし、これは必要条件であって、十分条件ではないと考えるべきでしょう。これ以上のことはカイエンブルクは述べていませんが、私はそこに、「公的に宣言したからには、公的に賛同が得られるものでなければならない」という条件を付したいと思います。
犯人Aは、この条件をクリアできていません。彼の話を聞いた者たちは、一同に犯人Aの言説を受け入れなかっったのです。このことは、その内容、もしくは、表現方法に何らかの落ち度があることを意味しているのです。表現に問題があるだけであれば、そこを修正することで、賛同の条件をクリアすることができるはずです。しかし、内容自体に問題があるのであれば、根本的な修正もしくは完全な破棄が求められるのです。
結論
犯人Aは犯行前に、自らの考えを公にしたものの、普遍的な視点から賛同が得られなかった時点で、その原因について掘り下げて考えるべきだったのです。ところが彼は、そこで思考を停止させてしまったのです。もし私のこの見立てが正しいとすれば、彼の行為は、カントの枠内では、やはり倫理的悪であったことになるのです。
それはカント自身の表現を借りると、「自己自身を煙に巻く不誠実」ということになります。それも単なる悪ではなく、根本的な悪なのです。
この自分自身を煙に巻く不誠実は、我々のうちに真正の道徳的心術の基礎を据えることを妨げるものであって、それはさらに外部にも広げられ、他人に対する虚偽や欺瞞ともなるのである。これは悪意と呼ばれるべきでないにしろ、しかし、少なくとて卑怯と呼ばれるに値し、人間本性の根本的な悪のうちに存するのである。(カント『単なる理性の限界内の宗教』)
私は人間というのは、自らの悪性を自覚し、確信犯で悪で犯すことなど稀であり、倫理的悪の多くは、考えることを放棄したゆえになされているのではないかと思っています。
それ(自己欺瞞による根本的な悪を犯すこと)を避けるためには誤魔化さずに、徹頭徹尾考える他ないのです。自らの頭で考えるのに卓越性や能力といったものは必要ありません。それは「やろう」と思えば、必ずできることなのです。