オンライン講座のお知らせ

2025年1月10日よりNHKカルチャーセンターにおいて「カントの教育学」をテーマに講座を持ちます。いつも通り、対話形式で進めていくつもりです。とはいえ参加者の方の顔が出るわけではありませんし、発言を強制することもないので、気軽に参加してください。
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カントと野村克也

野村克也の哲学 カント倫理学

先日、野村克也さん(以下敬称略)が亡くなりました。その後の彼を悼むニュースや記事を目にして、「ああ、みんな野村克也が大好きなんだなあ」と思いました。

「カントとルソー」「カントとヒューム」といった切り口の論文や講義はよくあると思いますが、今回私は「カントと野村克也」で記事を書くことにしました。

カント
カント

ああ、なんと画期的な試みか!

二人の間には共通点があります。それは過程に関心を払い、評価する点です。より具体的に言うと、自分の頭で考え、根拠を持って行動することに価値を置く点です。

野村の教え

野村克也は自著のなかで以下のように述べています。

選手が自分なりの考えを示せば、結果は問わない。逆にヒットが偶然出た場合、「次につながらない」とあまり喜ばない。一度もバットを振らず三球三振に倒れても、「全部まっすぐを待っていたが、三球ともカーブが来た」と理由があれば怒らなかった。(野村克也『野村の流儀 人生の教えとなる257の言葉』)

本来ならば、なぜ直球を待っていたのかの根拠が知りたいところですが、そこは書かれていないだけで、あったのだと仮定して話を進めます。もしその根拠がしっかりしているのであれば、その妥当性は、結果とは関係なく評価されるべきなのです。

「結果が悪ければ叱る」「結果が良ければ褒める」では中身のない結果論に陥り、受け手がそこから学べることはありません。それは「指導」や「教育」とは言い難いのではないでしょうか。

カントの教え

カントの場合、野球に取り組む姿勢についてではなく、倫理性を問題にするのですが、やはり結果ではなく、過程を評価します。具体的には、非利己的な善意志のうちに倫理的価値が存すると説くのです。

善い意志は宝石のように、まことに自分だけで、その十分な価値を自身のうちに持ち、光り輝くのである。役に立つとか、あるいは成果がないといったことは、この価値に何も増さず、何も減ずることはないのである。(カント『人倫の形而上学の基礎づけ』)

カントは、非利己的な善意志からの行為に倫理的価値を見出すのですが、ただ闇雲に善意志から行為すればよいというものではありません。その前提として、普遍化の思考実験、すなわち、いかなる行為原理が客観的な視点から望ましいものと見なされうるかについて吟味することが求められるのです。

とはいえ、「普遍化の思考実験をパスすることができるから」「行為原理として客観的な視点から望ましいものと見なされうるから」というだけでは根拠とは言えません。ここで言う「根拠」というのは、それがなぜそう言えるのかについての根拠なのです。

カントは以下のように表現しています。

自分の理性を用いるということは、私たちの〔自身がどうするべきかに関する〕仮説について、次のことを自分自身に問うことに他ならない。つまり、私たちの仮説の根拠、あるいは、私たちの仮説から帰結する規則を、その理性使用の普遍的原則とすることができるかどうかを自分自身に問うことである。(カント「思考の方向を定めるとはいかなることか」)

カントは義務というのは究極的には、自身の能力の陶冶か、他者の幸福への寄与にいきつくという言い方をしています。いずれにしろ、なぜそれを義務と見なすのかについての根拠を挙げられなければならないのです。

また、同じことは、二つ以上の義務が衝突するように見える(実際には衝突しているわけではない)場合にも言えます。カントは以下のように表現するのです。

実践哲学は、より強い責務が優位を占めるとは言わずに、より義務付けの根拠・・・・・・・が場所を占めると言うのである。(カント『人倫の形而上学』)

例えば、「約束を守る」という命題は義務たりえます。他方で、約束の場所に向かっている途中で倒れている人を見たら(約束を反故にしてでも)その人に手を貸すこともまた義務たりえます。

このような場合、より強い義務付けの根拠が優先されるのです。その際に、どちらをとるかということは各人の選択意志に委ねられていることになります。

前者を責務としてより強いと判断する者は、例えば「もしみんなが約束を守らないようなことがあれば、社会は成り立たない」といった根拠、また後者をより強いと判断する者であれば、例えば「誰も困っている人に手を貸さないような世の中が到来することは望まれない」といった根拠を挙げることができるでしょう。そういった根拠があって、はじめて命題は道徳法則に値し、倫理的善への道が開けるのです。

二人の教え

野村克也とカントの二人の語っていることの間には、コンテクストの違いがあることを指摘する人がいるかもしれません。問いの形として以下のように表現することができます。

野村克也は確かに短期的な結果は求めていないものの、自身で考えて、根拠を持って行動することによって、長期的な結果、そして、その先にある幸福をも期待しているのではないか?

だとすればカントの立場とは異にするのではないか?

この点はよく誤解される点なのですが、確かにカントは、結果や幸福のうちに倫理的価値はないと説きます。しかし、彼は、それらについてどうでもよいものと捉えているわけではなく、むしろ、倫理的に正しいことをしていれば、結果や幸福は後からついてくると考えているのです。

一例を挙げて説明すると、(野村克也の場合、実際にそうだったのですが)ある若者が、実家が極貧であり、家計を支えるために、プロ野球の世界に入ったとします。そんななかでプロ野球の世界で活躍することを倫理的義務と見なすことは十分可能だと思うのです。

だとすると、倫理的善を追い求めることは、自身が結果を残すことや、幸福になることに背を向けることどころか、むしろ、それに向かって努力することと寸分と違わないことになるのではないでしょうか。

カント自身、そのことを以下のように表現しています。

徳と幸福は必然的に結合したものとして考えられる。(カント『実践理性批判』)

カントは徳と幸福が同一の概念ではないことを断るのですが、他方で、相互に何らの相関関係もないということではなく、それどころ結合する(verbunden)、つまり、両立すると言うのです。もちろん、有徳な人間が、必ず幸福になるということではありません。そこには偶発性が絡むためです。しかし、有徳に振舞うことは、自身の幸福に資する可能性を結果的に・・・・高めているのです。

最後に

私は、選手の内面に関心を寄せ、結果如何に関わらず、過程をそれ単体で評価するような人に、指導者によってほしいと願っています。結果にばかり拘泥し、結果論を振りかざすような、哲学のない・中身のない人にはなってほしくないのです。

もっとも、野村克也ほどの人物となると、そうは出てこないと思いますが・・・。