昨年の今頃、2020年年始の段階では、コロナウイルスが世界中にこれだけの猛威を振るうとは思ってもいませんでした。2021年を迎えても、コロナパンデミックが収まる兆しは見えません。そのため今年最初の記事は、コロナウイルスとの向き合い方について書くことにしました。
問い
コロナウイルスへの対応に関して、さまざまな意見があります。専門家同士でもまったく異なる、それどころか矛盾するような見解が見られます。このような混沌として状況下において、私たちはいったい何を信じて、どのように振舞えばよいのでしょうか。
カントの立場
カントは論文、「啓蒙とは何か」において、専門家といえども一般市民に自分の価値観を押しつけるべきではないこと、そして、市民の側も判断を専門家に丸投げすべきではないことを説いています。そのことは、「自分自身で考える勇気を持て」という「啓蒙とは何か」の標語から導かれる必然的帰結とも言えます。
カントは、例として、牧師に加えて、医者の言うことにも無批判に従うべきでないことを述べています。現在のコロナパンデミックに絡めて言えば、医者以外にも、感染症の専門家や疫学の専門家などを挙げることができるかと思います。
もっとも私自身、最初に「啓蒙とは何か」を読んだときは、医者の方が知識があるのだから、患者が医者の言うことを信じて従うのは普通だろう(カントの例は不適切なのではないか?)と思ったのです。ただ、新型コロナウイルスに関しては、専門家でも手探りの状態であり、過度に期待をかけて信じることは危険であるように思えます。普通の病気や疫病への対応と比べても、コロナウイルスへの対応に関しては、自分で考えることの重要性がより高まると言えそうです。
カントは専門家に無批判に従うことを戒めています。ただ彼は専門家の言うことに従うなと言っているわけではありません。批判的視点を持った上で、専門家の意見を受け入れることを否定しているわけではないのです。そのためには、一人もしくは一部の専門家の意見だけを聞いて、それを真に受ける(ましてや、誰が書いたのか分からないような匿名のネットの情報を鵜呑みにすること)のではなく、より多くの意見を聞き、自分で情報を取捨選択する必要があります。
私たちは、何が正解なのか分かりません。しかし、そこに近づこうとすること、そこに向かって努力することであれば、誰もが必ずできるはずなのです。
(この人生において)完全性を達成することは義務ではないが、それに向かって努力することは確かに義務である〔後略〕。(カント『人倫の形而上学』)
カントは「啓蒙とは何か」において、自ら考えようとしないことは怠慢であり、怠惰であり、その責めは自分自身のうちにあると言いました。同じように、(考える方向性を間違わないように)自分で情報を集めようとしないことは怠慢であり、怠惰であり、その責任は本人にあると言えるのではないでしょうか。私たちにはコロナウイルスについて、そして、その対応について、自ら積極的に情報収集する倫理的義務があるのです。
最後に
メディアから専門家と言われる人たちが言っていることを追っていると、少し前とまったく違うことを言っていたり、予想が当たったときだけ「ほら言っただろ」と得意満面に語り、外れたときには黙り込んで触れないといったことがあります。その度に、「やっぱり自分で多くの情報を集めて、自分の頭で考え、判断を下すしかないんだなぁ」と思うのです。