前回の記事では「よいとは何か?」という問いに対峙しました。そこで「よい」と呼ばれるものにも様々なもの、例えば「卓越性における良さ」「結果の良さ」「倫理的な善さ」などがあることについて触れ、それらを混同すべきではないことについて述べました。
今回はその倫理的善の対極にある、倫理的悪の姿について考えてみたいと思います。
きっかけ
実は今学期の私が担当したゼミのテーマが、「カントにおける悪」でした。そのテーマを選んだきっかけは当時3歳だった息子の「パパ、悪って何?」という一言でした。
パパ、悪って何?
えーと あのー そのー
(タジタジ)
「悪」なんて言葉をどこで聞いたのか息子に尋ねると、幼稚園で他の子供に「君が悪い!」と言われたというのです。それ以来、息子は何かあるごとに「ぼく悪い?」「パパ悪い?」「ジミー悪い?」(注、ジミーとは息子お気に入りのうさぎのぬいぐるみ)などと聞いてくる状態がしばらく続きました。
このような息子の疑問に答えるべく、大学のゼミで一学期間かけて学生たちと悪について侃々諤々の議論をしたのでした。学期が終わった今でも正直分からないことだらけなのですが、少なくとも私がある程度納得できている部分についてだけでも、ここにまとめてみたいと思います。
「悪」にもさまざまな悪性がある
まず押えるべきは「よい」同様に、「悪」にも様々な内包があるということです。例えば、①卓越性における悪(欠如)、②結果の悪、③倫理的悪といったものです。
①アリストテレスの立場
卓越性における悪(欠如)について説いたのは、古代ギリシアのアリストテレスです。前回や前々回の記事に出てきた例に絡めて言うと、炭酸飲料は振れば炭酸が復活すると信じて実際にそれを行動に移してしまった子供は知識や判断力の面で、つまり、卓越性の面で劣っていたことになるのです。アリストテレスに言わせれば、卓越性の不足はすなわち徳の不足なのです。
卓越性こそが物差しである!
②古典的功利主義の立場
結果の悪について説いたのは、ベンサムやミルなどの古典的功利主義者たちです。彼らに言わせれば、結果的に人々を不幸にするような行為は功利主義的には悪なのです。先ほどの例に絡めて言うと、ただでさえ炭酸がほとんど残っていない炭酸飲料を振られて、余計に炭酸がなくなってしまった私は不快に思います。功利主義者からすれば、幸福の総量を減少させたその行為は、倫理的悪なのです。
結果を見れば分かる!
③カントの立場
カントは、アリストテレスやミルと異なり、炭酸飲料を振ってしまった子供の行為を道徳的悪とは見なしません。なぜならカントは道徳性の物差しを動機のうちに見出すためです。
倫理的悪は動機のうちにあり!
例えば、動機が利己的でれば、その行為は道徳的に悪なのでしょうか。実際にカント倫理学をそのように解釈する人たちがいます。しかし、もしその解釈が正しいとすると、そこには大きな困難が生じることになります。というのも、人間の行為というのは、概して利己的なものであるためです。つまり、利己的な動機に発する行為がすべて倫理的悪であるとなると、私たちの行為のほとんどが倫理的悪であることになってしまうのです。
予告
今回は前置きのみにして、次回の記事において、カントにおける利己的な行為の倫理的位置づけについて考察を加えたいと思います。