前回の記事において紹介した、カントの『啓蒙とは何か?』の冒頭には、啓蒙の標語が掲げられています。それはラテン語でsapere audeと表現されています。
前回の記事の最後に参考として、『啓蒙とは何か?』の日本語訳を二つほど挙げました。
ひとつは伝統ある岩波文庫のものです。
そこでは、sapere audeが「敢えて賢かれ!」と訳されています。しかし、私は思うのです。
「敢えて」というのは、辞書的には、「やりにくいことを押し切ってやるさま」「無理に」という意味です。つまり、そこに「賢かれ」が続くと、「やりにくいことを押し切って、無理にでも、賢くあれ!」ということになるのです。意味がとれるかどうか以前に、日本語として不自然だと思うのです。
また内容的にも「賢くなれ!」と言われても、「はい分かりました」と言ってなれるわけでもありません。「どうすれば賢くなれるんだ?」と突っ込みたくなるところですが、その答えが書いてあるわけでもありません。この訳ではカントが何を言いたいのかよく分からないと思います。
前回の記事では、岩波文庫以外にもうひとつ、平易な訳で知られる光文社古典新訳文庫のものを挙げました。
こちらはsapere aude を「知る勇気を持て」と訳しています。これならば、日本語として違和感はないと思います。
この中山訳は、世間的には、「(とても)分かりやすい」と言われています。しかしながら、個人的には、少なくともこの箇所に関しては、とても分かりにくい(誤解を招きかねない)訳だと私は思っています。
というのも、「知る勇気を持て」と言われても、何かについて知るべきなのか分からないのです。その前後を読んでもまったくそんな話は出て来ないのです。そもそも「知る」という単語が出てくること自体が唐突に映るのです。
単に唐突であるというだけでなく、内容的に不適切であると`私は思っています。もしカントが「カントという人は啓蒙論において知ることの重要性を説いている」などという発言を聞いたらおそらく激怒するでしょう。なぜなら、カント自身が受け手に対して、そのような誤解を犯さないでほしいことを明確に断っているためです。
ところで、人が啓蒙を知識の上での啓蒙だと思い込んでいる限り、そのようなものは啓蒙には属さない。というのも、啓蒙とはむしろ、認識能力の使用における否定的な原則であり、知識の上で非常に恵まれている人ほど、しばしば知識の使用においては、まったく啓蒙されていないからである。(カント「思考の方向を定めるとはいかなることか?」)
カントにとって、啓蒙とは知(識)に関わるものではないのです。
知識の有無と、自分で考える姿勢の有無はまったく別物です。知識というのは教育を受けた人の方が比較的あるかもしれません。例えば、カント研究者は、カントが生きていた時代にどのようなことが起こり、そして、カントがどのような内容のことを書き記したのかよく知っていると思います。しかしそのことは、彼らカント研究者が、一般の人よりも自分の頭で考えていること、つまり啓蒙されていることを意味しないのです。
それどころか、カントは先の引用文において、知識のある人ほど実際には啓蒙されていないことがしばしばであることを指摘しています。啓蒙について、それを知ることや知識に関わるものとして捉え、その獲得に拘泥するような態度は、カントの意図にむしろ離反することになるのではないでしょうか。
私たちが持つべきは、知る勇気などではなく、自らの頭で主体的に考える勇気なのです。
考える勇気を持つのに、知識や才能や運といった偶発性の伴う要素は必要ありません。それは誰もが、そして、いつでも行使することができるはずのものなのです。万人に開かれている。そこに啓蒙思想の眼目があるのです(知識云々を言い出すと、この点も見えにくくなってしまうのです)。
ただ、ここであえて以下のことを問うてみたいと思います。
それは様々な悪に結びつくことと言えます。
ナチス・ドイツの時代に、自ら考えることを怠り、大量のユダヤ人を強制収容所に送る任務に積極的に関与したアイヒマンについて記事を書いたことがあります。
アイヒマンの例は極端だと思われるかもしれませんが、(「ミルグラム実験」や「スタンフォード監獄実験」といった)心理学の実験によって、環境次第で現代でも同様の事態が十分起こりうることが実証されています。
私は道徳法則に反する行為の多くは、自らが立ち止まって考える姿勢を欠いていたために起きているのだと捉えています。同じことを別用に言えば、考えさすれば気づいたはずのことも、考えないから気づかないのです。後から悪が顕在化してから、しっかりと考えなかったことを後悔しても遅いのです。
だからこそカントは、周りの人間や、自身の感情に流されるのではなく、自らの頭で考えること、そして、自らの決断に従うべきことを要求するのです。