オンライン講座のお知らせ

2025年1月10日よりNHKカルチャーセンターにおいて「カントの教育学」をテーマに講座を持ちます。いつも通り、対話形式で進めていくつもりです。とはいえ参加者の方の顔が出るわけではありませんし、発言を強制することもないので、気軽に参加してください。
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「利他」という言葉の使い方おかしくないですか?

利他とは? カント倫理学

前回の記事において、カントによる「利他」という用語の意味について論じました。この用語は、今日かなり恣意的に使用されているように思います。よく見られるのは、単に「困った人を助ける」というような外形的に望ましい行為を指す場合です。

例えば、利他的行為をテーマにした、小田亮氏の『利他学』という著作のうちに以下のような記述が見られます。

「転んだ子どもをおこしてやる」とか「友人のレポート作成や宿題を手伝う」といったような、二〇項目の他者に対する利他行為の事例が並んでいる。(小田亮『利他学』)

転んだ子どもをおこしてやる、友人のレポート作成や宿題を手伝う、といった行為が「利他行為」と表現されています。しかし、見返りを期待しての行為であれば、それは利他行為とは言い難いのではないでしょうか。 

もうひとつ例を挙げたいと思います。有名な倫理学研究者である永井均氏は、「利他」という用語を以下のように用いています。

それ〔ある種の他人に利する行為〕は、利己的に振舞って後で良心の咎めを受けたくない、あるいは逆に利他的に振舞って良心の満足を得たいという思いが動機となっているものである。この場合は自分の苦痛の回避・満足の確保ということが動機となっており、その限りで利己的であると言えるかもしれないが、しかし、そもそも利他的に振舞うよう作用するわけであるから、やはり利他主義に分類可能である。(永井均『なぜ悪いことをしてはいけないのか』)

「後で良心の咎めを受けたくない」「満足を得たい」といった動機から行為することは利己的であるという点はその通りだと思います。しかし、他人に利するのであれば、その行為は利他的でもあるという部分には賛同できません。永井氏の説明にはひとつのトリックがあります。彼は「利己」という用語に関しては動機のあり方を問題にし、「利他」という用語に関しては効果を念頭に置いているのです。つまり本来、対概念である二つの用語を対概念にならないように意味をすり替えて使っているのです(意図的にそうしているようにも見えるのですが、そのメリットが私には計りかねます。デメリットについては後ほど指摘します)。

「利他」という用語が恣意的に使用されているという事象は日本語に限ったことではありません。英語においても、「利他的」を意味するaltruismという用語は、動機のあり方については等閑視し、人助けや慈善などの外形的な行為のみを指して使われることがあります。

その典型を効果的利他主義(effective altruism)という立場のうち見ることができます。21世紀に入ってから登場した新しい立場であり、多くの読者にとっては初見であるかもしれません。興味があれば、ウィキペディアの記事を読んでみてください。

効果的利他主義 - Wikipedia

「効果的利他主義」という名前だけ聞くと、利他的に振舞うことを推奨している立場かと思いきや、まったくそうではありません。この運動は、自分の収入の一部をもっとも貧しい人々に寄付することを義務としています。多少貧しい人ではなく、もっとも貧しい人に寄付をした方が、その効果は大きくなるためです。効果的利他主義という名前にある「効果的」という修飾語もそこから来ています。

「効果的」に続く「利他主義」という側面については、効果的利他主義の提唱者のひとりであるウィリアム・マッカスキルは以下のように述べています。

私が使う「利他主義」という言葉は、単純にほかの人びとの生活を向上させるという意味だ。利他主義には自己犠牲がつきものだと考える人々も多いけれど、自分自身の快適な生活を維持しつつ相手にとってよいことができるなら、それに越したことはない。私はそれを喜んで利他主義と呼ぼう。(マッカスキル『〈効果的な利他主義〉宣言!慈善活動への科学的アプローチ』)

マッカスキルの「利他的」という用語の使い方は、先ほど挙げた二人の日本人の論者と基本的に同じです。相手にとって効用があるのであれば、たとえそれが打算による利己的なものであっても、利他的であると言っているのです。

このように、効果さえあれば倫理的善であるという考え方のもとでは、行為者の動機の質は無視されることになります。そして、そのことは、純粋な善意志からの行為の善性が評価されないことを意味します。(本来の意味、つまり、自分の打算で動くという意味での)利己的に振舞うことと、(本来の意味、つまり、他がために振舞うという意味での)利他的に振舞うことの間の差異がなくなってしまうことになるのです。

効果的利他主義の論者のなかで、もっとも著名な論者として、ピーター・シンガーの名前を挙げることができます。功利主義者、動物の権利の擁護者としてのイメージが強いシンガーですが、近年はすっかりマッカスキルらの活動に影響され、効果的利他主義の旗振り役に徹している感があります。

シンガーの「利他」という用語の定義もマッカスキルのものとほぼ変わりありません。シンガーは、ある著作のなかで以下のように述べています。

他者への強い思いやりが自身の利益に含まれているかどうかに注目し、もし含まれていれば、利他主義者と呼びましょう。他者への思いやりから生まれた行動であれば、それがその人の得になるか損になるかにかかわらず、利他主義と呼んでいいでしょう。(シンガー『あなたが世界のためにできるたったひとつのこと 〈効果的な利他主義〉のすすめ』)

シンガーの文章を読んでいると、「もっとも貧しい人に寄付することは、自分自身のためになりますよ。だから積極的に寄付しましょう!」と言っているように聞こえるのですが、しかし、実際には彼はそこまでは言い切りません。そこまで露骨に本音を言ってしまうと、極めて利己的に聞こえる(効果的利他主義という名前との齟齬が鮮明になってしまう)からなのではないでしょうか。

言葉の定義が人によって異なるというのは、ある程度仕方のないことだと私は思っています。しかし、以下の三つの観点から、「利他」という用語に関しては、このような現状を看過すべきではないというのが私の考えです。

  • 「利己的」という用語の方は、誰もが動機を問題にし、「自身の都合によってなされた行為」と理解するはずです。同じことですが、ある行為が利己的かどうかは、他人に利するところがあるかどうかという効果の有無によって判断しないはずです。ところが「利他的行為」の場合には、実際に他人のためになっているという効果を指して使用されることがあります。これでは本来、対概念であるはずの二つの概念が別の事柄を指していることになり、対概念になりません。
  • そしてその場合、「利他」という用語は、単に定義がいくつかあるということに留まらず、文脈によって、まったく逆の意味になってしまいます。
  • 「利他」という用語は、倫理学という学問にとって非常に重要な中心概念です。この用語の定義の不安定さは、倫理学という学問の不安定さにつながることになります。

そこで私は、ここでひとつ提案をしたいと思います。利他とは、純粋に他人のためになされた行為に限定すべきであり、「自分のため」という打算が入り込んだ時点で、その行為は利己的と称するべきなのではないでしょうか

みなさんはどう思われますか?