前回の記事では、完全義務と不完全義務という概念について紹介しました。完全義務とは履行しなければ倫理的落ち度となるような義務のことであり、不完全義務とは履行しないことが直ちに倫理的落ち度とならない義務のことでした。
カント倫理学に触れたことのある人にとっては、完全義務と不完全義務はすでに既知の概念であったかもしれません。しかし今回は、ほとんど知られていない義務概念を紹介したいと思います。それは間接義務と呼ばれるものです。
間接義務については、研究者の間ですらほとんど話題にのぼることはありません。著名なカント倫理学研究者である、イェンス・ティンママンは2006年の時点で間接義務について以下のように述べています。
カント倫理学における間接義務の役割について体系的な研究はこれまでまったくなされてこなかった。(ティンママン「カントの間接義務としての良心と道徳的誤謬」)
この言葉からすでに10年以上経っていますが、現状はまったく変わっていません。間接義務という概念について、私自身は研究する意義は十分にあると思っているのですが、ほとんど手つかずのままなっているのです。
カントは間接義務について、いくつか実例を挙げているのですが、今回取り上げたいのは、ここのところ数回にわたって扱ってきたテーマである、自身の幸福に関するものです。
旧約聖書のなかにヨブ記という話があります。ヨブは信仰深く、神を敬っていました。神はそんなヨブを祝福してもよさそうなものですが、反対に、様々な災いをヨブに与えるのでした。それでもヨブはしばらくは辛抱強く耐えていたのですが、次第に自分の境遇を呪うようになり、そのうち神を冒涜する手前まで追いつめられるのでした。
自らに降りかかる災難によって考え方が卑屈になり、そうやって歪んでしまった考え方が悪しき行為となって具現化するといったことは、誰のもとにも起こりうることなのではないでしょうか。正直、私自身もうまくいかないことばかりが続くと、ヨブのような気持ちになることがあります。
ただ、そのことを自覚しているのであれば、それを避けるように努めるべきということが言えるのではないでしょうか。カント自身、その種の義務が存在することについて以下のように言及しています。
自分自身の幸福を確保することは(少なくとも間接的に)義務である。多くの心配事が群がる窮地のなかで、満たされない諸欲求のなかで、自分の境遇に満足することが不十分であれば、このことは容易にもろもろの義務への違反に導く大きな誘惑となるであろうからである。(カント『人倫の形而上学の基礎づけ』以下『基礎づけ』)
簡潔に言うと、カントは「倫理的悪に向かわないためにも、自分の幸福は自身で確保しろ」と言っているのです。
しかし、これまでの記事でなされてきた説明によれば、カントは自身の幸福のためになされた(つまり利己的な)行為に倫理的価値を認めない論者であったはずです。ところが、この記事において突然、そのカントが、自分の幸福を自分で確保すべきことを要求しているという話が出てくると、当惑してしまうかもしれません。
え!カントの要求、なんか矛盾していない?
結局、自分の幸福は考慮すべきなのか、それとも
すべきでないのか、よく分からない・・・
カント自身が、ひとつの具体例を挙げて説明しています。――痛風患者は、それが自身の人生を短くするものであると自覚しながらも、自己愛からおいしいものを食べ続けるかもしれません。または、同じく自己愛から、瞬間的な快楽ではなく、長期的な快楽を希求し、節制することを選ぶかもしれません。もしくは、道徳法則を導いた場合、やはり節制することが帰結されるはずです。この道徳法則をそれが道徳法則であるために(つまり、非利己的な善意志から)行使すれば、それは道徳的に善なる行為ということになります。
〔倫理的考察の結果〕ひとつの法則が残るはずである。自身の幸福を促進するのに、自己愛にもとづいてではく、非利己的な善意志にもとづいてなすという法則である。そして、そこに道徳的価値が見出されるのである。(カント『基礎づけ』)
この箇所のカント説明は、動機に関して、利己的に行為するか、それとも、非利己的な善意志から行為するかの二者択一であるかのような印象を与えるものになっています。
しかし実際には行為の動機に関して、利己的であるか、それとも善意志に発するかの二つの可能性しかないわけではありません。その点についてはこの記事の後半で説明します。
自身の幸福の確保を間接義務と見なす思想は(決してカントの一時的な気まぐれなどではなく)『基礎づけ』の3年後に発表された、『実践理性批判』においても繰り返されています。
幸福について配慮することは義務である。一部には幸福(それは熟練、健康、富が属する)が、彼が義務を遂行するための手段を含むゆえであり、また一部は幸福の欠如(例えば貧困)が彼の義務に反する誘惑を含むゆえである。(カント『実践理性批判』)
『基礎づけ』では不幸が悪に傾きかねない点について語られていましたが、『実践理性批判』では、加えて善への足枷となることも指摘されています。例えば、自分が極貧で、食べるものにも困るような状態にあり、目の前に食べ物が並んでいれば、それを食べてしまいたい欲求に駆られるはずです。これは「義務に反する誘惑」と言えます。そして、そのような状況では、自分が倫理的事柄に関心を払い、自分よりもより貧しい人を助けようなどといった発想はまず出てこないと思います。
『基礎づけ』と『実践理性批判』という二つのテキストから、自身の幸福の確保を間接義務と見なす記述を引用しましたが、『実践理性批判』からさらに9年後に発表された『人倫の形而上学』においても、やはり同様の主張が繰り返されています。
不快なこと、苦痛や欠乏は自分の義務への違反へと導く大きな誘惑である。裕福、強壮、健康、及び一般に幸せなどはそうした影響力に対抗するものであって、それゆえまた同時に義務であるところの目的と見なすことができよう。つまり、自分自身の幸福を促進し、ただ他の人の幸福のみに関心を向けないこともまた義務であるところの目的と見なすことができるように思われるのである。しかしながら、その場合には、幸福が目的なのではなく、主体の道徳性こそが目的であり、この主体から障害を取り除くことは単に許された手段であるに過ぎない。(カント『人倫の形而上学』)
先ほど引用した『基礎づけ』の説明では、痛風患者の動機について、利己的であるか、もしくは非利己的な善意志からであるかの二択であるかのような説明がなされていましたが、この『人倫の形而上学』では、利己的な都合によってではなく、それが道徳性に寄与するものであることを理由として、自身の幸福に努めるという選択肢が示されているのです(『基礎づけ』でも念頭には置かれていましたが、明確には語られていなかったのです)。ここに間接義務の姿が露になるのです。
自身の幸福の確保が倫理的善のための手段となりうる、それに寄与する可能性があるため、この種の義務は間接的と呼ばれるのです。
自身の幸福の確保を間接義務と捉える思想は、この記事に紹介したように、カントの倫理学関係の主要三著作すべてに記されているのです(つまり、カント倫理学のうちに一貫して流れている思想なのです)。
さて記事の最後に質問です。
次回の記事では、この問いの答えについて模索することになります。
おっ、やっと俺の出番か!