これまでに何度も繰り返し述べてきたことですが、カント倫理学にとって倫理的善悪の試金石となるのは、成功するとか、うまくいくといった偶発性の絡む点ではなく、意志したかどうかという偶発性の一切絡まない点なのです。
このような考え方は、とりわけ教育現場において重要であると私は考えています。なぜなら子供というのは、よいことをする欲求を持っていながら、未熟であるために、なかなかその思いが実を結ばない存在であるためです。
子供にとって、うまくいかなかったときの負の影響は決して小さくないことを、教育学者ジョン・デューイは以下のように指摘しています。
子供は発表したい、行動したい、奉仕したいという自然的な欲求を持って生まれてくる。この自然的な欲求が実現できないときの社会的精神に対する反動は私たちが考えるよりもずっと大きい。(デューイ『学校と社会』)
子供はよいことをしようと思っているのに、行動に移すことができない、もしくは行動したのにもかかわらず、うまくいかなかったときに、大人が結果のみに拘泥して、子供を叱責するようなことがあれば、その子供は救われません。
デューイは学力を例に、大人が行き過ぎた結果主義・成果主義による弊害について以下のように述べています。
学力の弱い者は、次第に自分の能力に対する自信を失い、常に劣等の地位に置かれる。このことの自己に対する尊敬や仕事に対する尊敬に及ぼす悪影響は言うまでもない。(デューイ『学校と社会』)
例えば、試験の点数や合否のみが評価基準であるならば、結果を残せない子供は肯定的な評価をまったく得られないことになります。そのような環境下では、その子供はどんどん自信を失い、萎縮していってしまうのではないでしょうか。そして、もともと子供のうちにあった、「よいことをしよう」という気持ちは薄れていき、「どうせうまくいかない」「また失敗するだろうからやらない」となってしまうのではないでしょうか。
反対に、大人が結果以外の面にも関心を寄せ、例えば、思考過程や努力や動機といった側面も目を向け、評価する姿勢を持てば、結果を残せない子供も、救われるのではないでしょうか。そして、頑張れるのではないでしょうか(そうなれば、次こそは結果が伴うかもしれません)。
私は、今でこそ大学で教鞭を執っていますが、謙遜ではなく、本当に子供の頃は勉強ができませんでした。スポーツも徐々に得意になっていきましたが、本格的に野球を始める前は特にできるというわけではありませんでした。
そんな私は小学生の頃に人から評価された記憶などほとんどないのですが、数少ない褒められたことについてはよく覚えています。あるとき担任の先生が(私が運動会の運営で少し接した程度の)別の先生から「秋元は頑張り屋だよ」と言われたという話をしてくださったのです。そのとき私は、「自分は勉強やスポーツではなかなか結果を残すことができないけれど、頑張ることなら自分にでもできる!」と思ったことを強く覚えています。
同じ気持ちは今でもずっと持ち続けています。つまり、「結果が伴わないのは仕方ない。でも結果が伴うように、全力をつくすことならできるはずであり、それくらいはやってやろう」という気持ちです。具体的には、自分で考える、努力する、善意志から行為するといったことです。あの時の先生の言葉が、今の自分の背骨となり、拠り所となっているのです。
うちの四歳の長男も、お手伝いをしようとしたり、次男(赤ん坊)の面倒をみようとしたりして、失敗してしまうことがあります。うまくいかなかったことには原因があり、その点について話すようにしています。ただ、それだけではなく、よいことをしようとすること自体に価値があるということはを必ず伝えるようにしています。
私は今夏学期はカントの教育論についてゼミをしました。教職課程の学生が多数いたこともあり、学期の最後の授業において、結果だけに拘泥するのではなく、プロセスにも関心を寄せ、評価する教育者になってほしいという話をしました。
私は、その場にいた、教員志望の学生たちが、将来カント的な(そしてデューイの教育理念にも連なる)教育を実践してくれることを願ってのことです。
みんな私の話に感動して泣いてくれるかと思っていたのですが、そんなことありませんでした…。