倫理的な問題を前にしているにもかかわらず、自分がどうしてよいのか分からい場合があります。前回の記事では、そのような場合、カント倫理学は無力なのではないかという問いを立てて、考察を加えてみました。
ここで、私なりの回答について確認しておくと、仮に自分がどのようにしてよいのか分からないとして、分からないなら分からないなりに、そのような現状を打開する努力はできるはずであるというものでした。
問題提起
それに似た構造として、今回の記事では、何をすべきか分かっているけれど、状況が許さない場合について考えてみたいと思います。
自分がすべきことの一例として、カントは自身の能力を伸ばすことを挙げています。
ある人は、自らの才能を錆びつかせることが、普遍的自然法則になることを、あるいは、それが法則として私たちのなかに自然的本能によっておかれていることを欲しようとしても、それは不可能である。(カント『人倫の形而上学の基礎付け』)
私自身のことを例にとると、私は応急処置の仕方を知りません。保健体育の授業や教習所などで習ったことがあるような気もしますが、すっかり忘れてしまいました。実際に私の目の前で倒れた人がいても、私は適切な対応が取れないだろうことが目に見えているのです。
適切な対応を取れないこと自体は倫理的な落ち度ではありません。しかし、そのことを自覚していながら、何の対策も取らないのは、それは倫理的な落ち度と言えるでしょう。私には応急処置が施せるようになるよう努める義務が生じるのです。
私は何をすべきか
そこで私は応急手当の講座を探してみました。するとお金がかからないで受けられるコースが大学にありました。ところが、それが朝から夕方まで丸二日間かかるのです。
私は割の合わない仕事をいくつも掛け持ちすることで、なんとか生計を立てています。二日間も穴を空けることはできません。
そこで少なくとも次の講習に参加することは断念しました。夏にも実施されるようですが、それも参加できるかどうか分かりません。というか、可能性としては低いと思います。「いつか余裕ができたら」ということしか言えません。
つまり、私は自身の能力を伸ばすべきことを自覚しておきながら、それを(「とりあえず」と言いながら)断念したのです。
カントは何を言う
私自身はもちろん不満です。そんな私に向かってカントは、以下のような言葉をかけてくれるのではないでしょうか。
努力することは義務であるが、(この人生において)それを達成することは義務ではない(カント『人倫の形而上学』)
(たいていその根拠は示されないのですが)カント倫理学はよく、「厳格」「厳しすぎる」などと批判されます。しかし、当のカントは「努力さえすればできなくてもいい」と言っているのです。こんな誰にでもできるはずのことしか要求しない、ハードルの低い倫理学説は他にないはずなのです☺
ちなみに応急手当の講座はとりあえず断念しましたが、You Tubeのビデオをいくつかダウンロードしたので、電車で長距離の移動の際などに、見て勉強するつもりでいます。便利な世の中になったものです。