コロナウィルスの影響で、日本の七都道府県に緊急事態宣言が出されました。普段であれば、外に出て人に会うことなど何の倫理的問題にもならないのですが、今はそれが倫理的問題となります。なぜならそれが、他人に病気を移し、死に至らしめるリスクを高めることになるためです。
多くの人は自粛しているわけですが、なかには好き勝手に動き回っている人 たちもいます。このような行為は倫理的に悖ることは言うまでもありません。
ただ毎回、「倫理」「倫理」とばかり言っているのも何なので、今回は別の観点、具体的には、自身の幸福を追い求めるという観点(カントにおいて幸福論は倫理学から明確に区別される)からも考えてみたと思います。
なぜこの状況で好き勝手動き回ってしまうのか
緊急事態宣言が出ているこの状況で、好き勝手に行動してしまう人たちというのは、どのような理由からそうしているのでしょうか。以下の二つの可能性について考えてみたいと思います。
- (事態の深刻さが分かっていないから考えない、また、考えないから事態の深刻さがつかめない、そして、それらが相まって)よく考えないまま行為している可能性
- 自ら考え、事の重大さを理解した上で、それでも意図的に自分勝手に振舞っている可能性
前者の場合、カント倫理学の理屈では、倫理的責任が問えないことになってしまいます(ただし倫理的ではない責任であれば問える)。なぜなら、カントは理性に発する意志のうちに倫理的善悪を認めるためです。そもそも理性が介在しない行為に善も悪も認められないのです。
後者の場合、理性的に行為していることが前提になるのですが、だとするとあまりに非合理的な判断と言えます。
そこで私は第三の可能性について想定し、考えてみたいと思います。それは先の二つの可能性を折衷させたような立場で、ある程度は考えた上で、しかしながらどこかでその考えることを放棄してしまっているという可能性です。
それはカント自身が「自分自身を煙に巻く不誠実」と表現する姿勢です。
この自分自身を煙に巻く不誠実は、我々のうちに真正の道徳的心術の基礎を据えることを妨げるものであって、それはさらに外部にも広げられ、他人に対する虚偽や欺瞞ともなるのである。これは悪意と呼ばれるべきでないにしろ、しかし、少なくとて卑怯と呼ばれるに値し、人間本性の根本的な悪のうちに存するのである。(カント『単なる理性の限界内の宗教』)
自身がどうすべきなのか本当はよく考えるべきなのですが、人は自分自身を煙に巻くことによって、自分自身を誤魔化してしまうことがあります。カントはそれを根本悪と結びつけるのです。
なぜ思考停止してしまうのか
では、なぜ人は自分自身を煙に巻いて、自分で自分を誤魔化すようなことをしてしまうのでしょうか。
理由は単純で、その方が楽だからです。
〔自分で考えずに後見人に従っているだけの〕未成年状態でいることは確かに気楽である。(カント『啓蒙とは何か』)
先ほどは、理性を一切欠いて、感性の赴くまま動き回るような人間には倫理的責任が問えないということについて触れましたが、もし理性的に感性の赴くまま動こうとしているとすれば、当然のことながら、話は別になります。
そのような状態についてカントは以下のように述べています。
ところで、その未成年状態に留まっているのは、彼自身に責がある。というのは、そのような状態にある原因は、悟性〔=理性〕が欠けているからではなく、本来その権能が備わっているはずであるところの、自らの悟性〔=理性〕を行使するための決意と勇気とを欠くことにあるからである。(カント『啓蒙とは何か』)
コロナウィルスが蔓延している状況であっても、本人がただ感情に流されて、好き勝手に振舞っているとすれば、その者に倫理的責任は問えないことになるのですが、私はそういった人間は極めてまれだと思っています。実際には、その方が楽であるために、自覚的に思考停止したり、情報を受け取らないようにしているのではないでしょうか。だとすれば、その人間は紛れもなく倫理的悪、それも根本悪に結びつく悪を犯していることになるのです。
また私は先ほど、道徳法則を蔑ろにする可能性の二つ目として、意図的に道徳法則を犯しているケースについて言及し、それが不合理であることを指摘しましたが、この自分自身を煙に巻く不誠実もまさに不合理であると言えます。
というのも、自分の好き勝手に動き回れば、確かにその場の欲求は満たされるかもしれませんが、それは自分自身がウィルスに感染するリスクを高めることになります。中には自覚症状のない人もいますが、感染している状態で動き回れば、ウィルスはまき散らされることになります。移された人のなかには発症し、重症になったり、死に至る人が出てくるかもしれません。その悪影響は回り回って結局、自分自身に跳ね返ってくるのです。当然のことながら、彼の行動は倫理的にも悖ることになります。
帰結
コロナの例に限らず、自身の幸福を念頭に置こうが、倫理的善を探求しようが、しっかりと自分の頭で考えさえすれば、導かれる行為というのはおおむね同一なのです。その点についてカント自身は以下のように表現しています。
完全な善〔=最高善〕であるためには、その〔=最上善〕上にまた幸福が必要とされるからであって、しかもこの幸福が単に自分自身を目的とする人格の偏った目においてではなく、かの人格を一般的世界においてそれ自身における目的として考察する不偏不党な理性の判断においてさえも要求されるからである。(カント『実践理性批判』)
カントは確かに自身の幸福を企図した行為に道徳的価値を認めません。しかし、そのことは行為者が不幸になることを意味するのではなく、むしろその逆であり、倫理t的に振舞える者は、結果的に幸福に預かる可能性が高いと考えられているのです(究極的には一致するはずであるが、残念ながら現実世界においては一致しないこともあります)。
他方で、単に「楽だから」ということで自分の短期的な欲求に流されて思考停止するような姿勢は、中・長期的には自分自身の幸福、ならびに、他人の幸福を脅かすことになるのです。そして、なにより倫理性を蔑ろにすることになるのです。とどのつまり、誰にとっても何の益にもならないのです。