前回は、『ドラえもん』に出てくる話と絡めて記事を書きました。それが大反響だったので、今回もまた『ドラえもん』をネタに記事を書きます。
良い子バンド
のび太はたいてい何をやってもうまくいきません。「良い子バンド」という回でも、のび太はよいことをしようとしてもなかなかうまくいきません。例えば、おばあさんを手伝ってあげようとして壺を割ってしまったり、その後も何をしても災難が続くのです。
そこで、のび太は「こうなったら徹底的に悪いこどをしてやろう」と決意します。するとドラえもんが登場して、「良い子バンド」なる道具をポケットから取り出します。それをつけると、何をしても、よい結果しかもたらさなくなるというのです。
実際に良い子バンドをつけたのび太は、ジャイアンを蹴っ飛ばすと、そのおかげで上から落ちてきた鉄骨からジャイアンを救うことになったり、見知らぬ家のガラスをわざと割ったら、その家のガス漏れで瀕死であった人を救うことになるといったことが起こるのです。
問題提起
でも、ここで疑問が浮かびます。困っているおばあさんに手を貸したのび太は壺を割ってしまったから良い子ではなく、悪い子なのでしょうか。反対に、悪意を持って行為したのに、結果的に人命を救うことになったのび太は悪い子ではなく、良い子なのでしょうか。
この問いは結局のところ「良いって何だ?」ということです。
①悪意を持ってやったことでも、結果が良い方向に出れば、それは倫理的に善いことなのか?
②よいことをしようとする意志さえあれば、結果が伴わなくともその行為は倫理的に善と言えるのか?
③倫理的善のためには両方が揃わなければならないのか?
みなさんはどう思われますか。
カントの立場
カント倫理学や、このブログの内容のことを知っていれば、ここでの立場は明確だと思います。倫理的善性は意志のうち(つまり②)に宿るのです。
カント自身は以下のように言うのです。
この世界において、それどころかこの世界の外においてさえ、無制限に善と見なされるのは、まったく善意志のみである。(カント『基礎づけ』)
倫理的善性は善意志のうちにのみ存するのです。そして、そこから導かれる必然的帰結として、結果が伴うかどうかは倫理的価値とは何の関係もないのです。
善い意志は宝石のように、まことに自分だけで、その十分な価値を自身のうちに持ち、光り輝くのである。役に立つとか、あるいは成果がないといったことは、この価値に何も増さず、何も減ずることはないのである。(カント『人倫の形而上学の基礎づけ』)
結果が伴わなくとも、つまり、何のプラスの作用もなかったいうことだけではなく、たとえ、人に迷惑をかけてしまったり、怒らせてしまうといったマイナスの結果を招いてしまったとしても、その行為が非利己的ぜ純粋な善意志に発しているのであれば、そこには倫理的な輝きが認められるのです。
カントは結果の良し悪しと、倫理的な善悪を明確に区別し、別個に評価すべきことを説くのです。
世の中には、このふたつのよさを混同して、「結果よければすべてよし」だの「結果がすべて」だのと中身のないことを言う人がいます。そのような考え方では、よいとは何かについて決して正確に捉えることはできないのです。
ドラえもんをきっかけにして、カントから学べること
子供がよいことをしようとしたのであれば、仮に結果が望ましいものでなかったとしても、大人はよいことをしようとした子供の意志を評価し、褒めてあげるべきなのではないでしょうか。そうすれば、子供は今後もよいことをしようとする気持ちを持ち続けることができるであろうからです(逆に「貶されて終わり」では、よいことをしようとする気持ちは沸いてこない、もしくは沸いてきても自分で押さえつけてしまうことになるのではないでしょうか)。
そして、結果が伴わなかった理由について、子供と一緒に掘り下げて考えるべきなのです。
うまくいかなかったのは、やり方に問題があったのかもしれません。そうであれば、その点を改善する、もっとうまくできる方法を模索することが有効となります。
または、過程のうちにまったく落ち度はなかったのに、不運にも結果が伴わないときだってあります。そうであるならば、そのことを大人が伝えてあげることもまた大事なことだと思うのです。
大人が子供に「結果よければすべてよし」だの「結果がすべて」などと、中身のない言葉を浴びせかけるだけでは、不正確な評価しか下すことができず、過大評価される子供と、過小評価される子供が生まれてしまいます。そして後者の方は救われません。加えて、どちらの評価を得た子供も、大人の中身のない言動からは何も学ぶことができないのです。
大人の側が「よしあし」が何についての「よしあし」なのか明確に区別することによって、的確な評価、そして、アドバイスすることができるのです。つまり、よりきめ細かな教育が可能となるのです。