オンライン講座のお知らせ

2025年1月10日よりNHKカルチャーセンターにおいて「カントの教育学」をテーマに講座を持ちます。いつも通り、対話形式で進めていくつもりです。とはいえ参加者の方の顔が出るわけではありませんし、発言を強制することもないので、気軽に参加してください。
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大学で哲学をする意味とは?

Meaning of studying philosophy at university カント倫理学

先日、ドイツ人の大学講師(少し本流の哲学からは外れているものの、その人も哲学博士)と、大学教育について話をしたのですが、意見が合いませんでした。

というのも、その人は学部レベルでは、生徒に自分の考えを形成するところまで要求するのは過大であり、まずは先哲の教えを理解することに専念すべきであり、それで十分であると言うのです。

みなさんはどう思われますか?

問題点の整理

ドイツの大学では、かつては20歳くらいで入学するのが普通でした。そして、10年近く学生をやっていることがざらでした。というのも、日本のような(アホな)入試制度はなく、自分の好きなタイミングで大学に入れるので、高校を卒業してすぐに大学に入るような人はむしろ少数派だったのです。そして、大学のシステムも、日本でいう学部と修士が一貫しているようなシステム(Magister)でした。そのため、かつてのドイツの大学生は日本と比べると入学も卒業も遅かったのです。人生経験も積んでいますし、哲学に携わっている時間も長くなるので、教える側もそれだけ高いレベルのものを要求できたと言えます。

しかし、そのドイツの教育システムも変わり、今では早ければ17歳で大学に入ってくる人もいます(今学期私の授業にも「今日私の18歳の誕生日でーす」という生徒がいました)。そして、学部と修士が分離され、学部だけならば在籍年数は4年前後になります。ドイツはもともとは日本と異なるシステムであったものが、日本を含めた世界的な基準に近づけたという言い方ができます。なので、先の問いは「ドイツの学部生が」と限定せず、「日本の学部生が」と考えてもらっても構いません。

とりあえずは先哲の教えを理解することに専念するという方向性は、学生以外の経験がない20歳前後の若者相手には、確かに現実的と言えるのかもしれません。しかしです、私にはどうしても拭い去れない疑問があるのです。

そんな「哲学」をやる意味って何なのでしょうか?

「カントは〇〇と言った」「デカルトは〇〇と言った」という知識だけはあるものの、そこに自分の考えがないような人間に、どのような役割を期待することができるのでしょうか。私が会社の面接官なら、そのような主体性のない人間は採用しないと思います。

そもそも、哲学とは、自らの頭で主体的に考えることではなかったのでしょうか。それを求めない哲学なんて、「哲学」と呼べるのでしょうか。

カントの立場

カントは「歴史的認識」と「理性的認識」を区別します。歴史的認識についてカントはヴォルフという哲学者(別にヴォルフである必然性はないのですが)の哲学を学んだ者を例に以下のように説明しています。

例えば、ヴォルフ哲学の体系を学習した人は、たとえ彼が、その全学説体系とともに、すべての原則や説明や証明を暗記しており、すべてが掌を指すがごとくであったとしても、それでもヴォルフ哲学の完璧な歴史学的認識以外の何ものをも持ってはいない。(カント『純粋理性批判』)

カントが何を言いたいのかというと、歴史的認識しか持っていない人とは、例えば、ヴォルフについて、彼の哲学に関する知識は持っているかもしれないが、そこに自分自身の考えがまったくない人のことなのです。カントは「描写的能力」はあるが、「生産的能力」はない人間という言い方もしています。確かに哲学科卒にはそういう人がいます。というか、たくさんいます。しかし、私は本当にそれでいいのか問うているのです。

他方で、「理性的認識」についてカントは以下のように説明しています。

客観的である理性認識〔中略〕が、主観的にも理性的認識という名称を帯びることが許されるのは、そうした認識が、学習されたものの批判も、それどころか拒否すらも、そこから生じるかもしれない理性の普遍的な諸源泉から、言い換えれば、諸原理から汲みとられたときでだけである。(カント『純粋理性批判』)

これまた難しい言い方がされていますが、要するに、ヴォルフ哲学に対して批判的な視野を持ち合わせて、場合によっては拒否する視点も持ち合わせた原理から生み出された考え(認識)のみが「理性的認識」と呼ばれるのです。単にヴォルフの言葉をオウム返しするだけではなく、「ここはおかしい」「もっとこうした方がよい」といった点についても、自分の言葉で語れるということです。

まとめ

学生に「歴史的認識」の力の陶冶求めるよりも、「理性的認識」の力の陶冶を求めた方が、要求としては高いことになります。生徒についてこさせるのは大変かもしれません。しかし、(いくら大変でも)大学というのは、そのための場所なのではないでしょうか。それを放棄することは大学であり、哲学でありが、自己の存在価値を否定しているように私には聞こえるのです。

最後にカントの有名な言葉を引用しておきたいと思います。

哲学(それが歴史的なものでない限り)は決して学習されえず、理性に関して言えば、せいぜい哲学することだけが学習されうるに過ぎないのである。(カント『純粋理性批判』)

実際のところ学部レベルの哲学教育は、歴史的な(歴史的認識にのみ関わる)ものになってしまい、知識のみを問う「哲学を学習する」(Philosophie lernen)になってしまっているのではないでしょうか。本当にそれでよいのか。もう一度考えてみてほしいと思います。