カントは倫理的善も悪も意志のうちにあると言います。ものすごく単純化して表現すると、利己的な打算を抜きにした純粋な意志からの行為を道徳的善と見なし、反対に、利己的な都合で道徳法則を反故にする意志からの行為を道徳的悪と見なすのです。
その裏返しとして、意志の介在しない行為は善にも悪にもならないということを意味しています。そして、意志は理性に発するので、そもそも理性的ではない、感情や本能や条件反射的な行為にも道徳性は問えないことになります。
カントの発想だと、考慮を経ない、非理性的な行為は、それが義務に適った(つまりみんなが望ましいと思うような)行為であったとしても、(自分の頭でしっかりと考えたわけではなく、自然と体が動いたのである以上)それはたまたまそうなったに過ぎないのです。
今回はこのような問いに対峙し、具体的な事例と絡めて考察を加えていきたいと思います。
先日起きたケース
2021年6月25日にヴュルツブルクという町でソマリア移民のイスラム教徒が無差別殺人を行い、多数の死傷者が出るという事件がありました。
この一報を聞いた多くの人が「またイスラムのテロか」と思ったこと、そして、難民として受け入れてくれたドイツに恩を仇で返すような形に映り、憤る人が大勢いる(いた)であろうことは想像に難しくありません。
しかし、事態はそう単純なものではありませんでした。そのソマリアからの難民は、精神科に通っており、おそらく犯行に及んだときには正常な判断が下せない状態にあったのです(現時点では、何が彼を犯行に駆り立てたのかよく分かっていないのです)。
もし彼が正常な判断が下せない状態にあったのだとすれば、カント倫理学の論理では、責任は問えないことになります。理性も、意志も介在しない行為には善も悪も問えないためです。
私個人としては、この点はカント倫理学の欠陥でもなんでもないと思っています。なぜなら、法的にも同じことが言えるからです。重大事件が起これば、被告の精神鑑定がなされます。そこでもし精神的な疾患が認められれば、罪が問われないことになります。
精神艦隊のやり方や精度について疑念が生じることがあったとしても、「精神疾患がある者には法的罪は問えない」という主張自体は否定しがたいと思います(もし、それすら否定する人がいるとすれば、申し訳ありませんが、精神疾患がどういった状態なのかの理解が不十分なのだと私は判断します)。
法的罪が生じないことを認めるのであれば、倫理的罪が生じないことも認めざるをえないと思います。
体が勝手に動いた場合
この事件に関して、私にはもう一点問題提起したい点があります。
40センチのナイフを振り回す殺人鬼を前に、数人が取り押さえにかかりました。ある者はそのへんにあるものを手に、ある者は素手で立ち向かっていきました。彼らには「何が道徳的に正しいのか」などと考える余裕はなかったのではないでしょうか。
もし条件反射的に体が動いたのだとすれば、そこには理性も、意志も介在していないことになります。カント倫理学の理屈だと、道徳的に善なる行為ではなく、善でも悪でもない行為に分類されることになるのです。
もうひとつ多くの日本人が記憶しているであろうエピソードを挙げると、2001年に新大久保駅で、酒に酔ってホームに転落した男性を救おうとして、ホームに降りた二人も犠牲になってしまったという事故がありました。
心が揺さぶられる感動的な話です。多くの人が「道徳的にすばらしい」と思うかもしれません。
しかしながら、カント倫理学の理屈だと、もし彼らが突発的に行動したのであれば、カントが道徳的善の必要条件と見なす理性や意志が介在しておらず、そのためそこに道徳的価値を認めることはできないのです。このような結論に対して受け入れがたいと感じる人がいるかもしれません。
もし、この問いに対して「そうだ」「善だ」と答える人がいれば、私はさらに以下のような質問を投げかけたいと思います。