カントは特定の行為自体を道徳的悪と見なすようなことはしません。道徳性は行為者の内面であるところの動機や意志のうちに存するからです。極端な例を出して「人殺しは悪だろ」などと言う人がいるかもしれませんが、それですら正当防衛や緊急棄却などによって法的、ならびに、道徳的責任が及ばないケースは十分考えられるのです。
しかしながら最近私は正当化するのが非常に困難であると強く感じる行為があります。それは今まさに社会問題化している漫画の海賊版サイトの問題です。
多くの漫画家は激務の上で金銭的にギリギリの生活をしています。ほんの少しでも収入が増えれば、彼らの暮らしはずっと良くなるはずです。ところが誰かが漫画の海賊版サイトで漫画を読んでも、その漫画家には一円も入ってこないのです。つまり現状では本来受け取れるはずの報酬が得られない状態にあるのです。そのために漫画業に専念できずに兼業しなければならない人や、夢を諦めざるをえない人が出てきてしまうのです。
加えて今はコロナ禍の巣ごもりによって、海賊版サイトの閲覧数であり、売り上げが増加しているというのです。つまり不法な手段を用いている側が利益を上げ、他方で、一生懸命仕事している漫画家たちがその割を食って、どんどんと厳しい状況に追いやられてしまっているのです。
閲覧する側の反論
漫画の海賊版サイトを閲覧する人の言い分で私が興味深いと思ったのは、「タダで見られるから見るのであって、そうでなければ見ない」というものです。つまり、「本来漫画家が受け取るはずの報酬を奪っているわけではない。実害はないんだ」という言い分です。
この記事にあるように対策をとっている人自身も、「このような意見に対してどう答えていいのか分からない」と述べています。「まったく理がないこともないような気がするが、どこかおかしい。ただその違和感の原因がどこにあるのか分からない」と言う人は少なくないかもしれません。
今回の記事ではこの主張にどれだけ妥当性があるのか考えてみたいと思います。
カントに照らし合わせて
カントは普遍的な視点に立つべきこと、そして、その上で自らの行為原理が意欲されうるものであるかどうか吟味すべきことを説きます。今回の漫画の海賊版サイトのケースに絡めて言うと、「タダだから見るのであって、そうでなければ見ない」という主張を公衆の前で堂々と公言する、そして、それがみんなに受け入れられる自信があるのかということです。そして、もし「ある」と言うのであれば、ぜひ堂々と実名で漫画の海賊版サイトを閲覧することの正当性について説いてみてほしいということです。
しかし、おそらくそんなことをする人はいないでしょう。分が悪い、つまり、普遍的な視点から受け入れられないだろうことを内心で分かっているからではないでしょうか。カントはこのような普遍化不可能な行為原理を採用することを「道徳的悪」と称するのです。
この道徳的悪というのは完全義務違反という言い方もできます。
完全義務とは、利己的な都合のために何ら例外を許さない義務と解する。(カント『基礎づけ』)
つまり、利己的な都合のために自らを例外視してしまうことが完全義務違反なのです。やっている本人は「自分ひとりくらい」と思ってやっているのかもしれませんが、現実を見ると「自分ひとり」にはならずに、大勢の人が同じように考え、同じことをしているのです。だから多くの人が不快に感じ、それが社会問題化しているのです。
「自分ひとりくらい良いだろう」という発想は、倫理においてもっとも忌むべき発想なのです。
さいごに
漫画を読む人は漫画が好きだから読んでいるはずです。しかしながら、漫画の海賊版サイトで無料で読むような人は、その好きな漫画の文化を壊すことに加担しているのです。自らの行為の意味について考え直してみてほしいと思います。