前回と前々回において『ドラえもん』に出てくる話をネタに記事を書きました。マンガを読んでいて、考えさせられること、気がつくことも少なくありません。
私が確か中学一年生の頃だったと思います。歯医者に行くと、待合室に『キャプテン』という野球マンガが置いてありました。今回はその野球マンガ『キャプテン』と絡めて、記事を書きたいと思います。
あらすじ
主人公の谷口は強豪の青葉学院から、弱小の墨谷二中に転校します。谷口は強豪校から来たとはいえ、もともと補欠でした。野球はまったく上手じゃなかったのです。しかし、転校初日、強豪青葉出身の谷口のプレーを部員みんなが期待して見ています。そんななかエースピッチャーが投げた球をたまたま大ホームランにしてしまったのです。それで墨谷二中のみんなは谷口がすごい選手であることを疑わなくなるのです。
こうなったら実力をつけるしかありません。谷口は毎日毎日、夜中まで特訓です。しかし、急に上手くなるはずがありません。
それから少しして、新チームになり、谷口はキャプテンから新キャプテンに任命されるのです。そこで谷口はたまらず、自分は青葉学院では補欠であったこと、本当は野球が下手であることを告げたのです。
しかし、キャプテンはそんなことは気づいていたと言うのです。キャプテンが谷口を新キャプテンに任命したのは、彼が野球が上手だからではなく、彼の野球に取り組む姿勢を評価してのことだったのです。キャプテンは谷口が隠れて努力していることを知っていたのです。
中学生の頃の私の感想
子どもの頃の私はこの話を読んで、とても胸を打たれました。たとえ下手でも、努力することはできるはずであること、そして、その大切さについて学んだのです。
それに関連してカントは以下のようなことを述べています。
(この人生において)完全性を達成することは義務ではないが、それに向かって努力することは確かに義務である。(カント『人倫の形而上学』)
アリストテレスと異なり、カントは卓越性に倫理的価値を認めない論者であることは何度も指摘してきました。卓越性は備えようと思って備わるものではありません。他方で、卓越性が備わるように努力することであれば、必ずできるはずなのです。カントは私たちに自身が確実にできることしか要求しないのです。
中学生の頃の私は(旧制中学でもあるまいし)カントのことなど知りませんでしたが、カント的な考え方に私は惹かれたのです。それ以来私は、たとえ下手であったとしても、下手なことを素直に認めて、その分、努力すればよいと考えるようになったのです。
大学生になって
このことは拙著『意志の倫理学』にも書きましたが、私は大学生の頃にレストランでアルバイトをしていたことがありました。しかしながら、物覚えが悪く、周りの人にはずいぶんと迷惑をかけてしまいました。魚の切り身を入れるべきところにウナギを入れてしまったり、コーヒーを入れるべき容器にめんつゆを入れてしまったり(見た目は同じようなものであるために、お客はめんつゆをコーヒーと思い込んで、そのまま飲んでしまったそうです)、毎日ミスばかりしていました。
ただ、できないのであれば、人一倍努力をしようと考え、勤務時間外に研修ビデオを見たり、メモを清書したり、暗唱したりしていました。するとそのうち、人様に迷惑をかける頻度は減っていきました。
そんなある日、私は店長に呼ばれました。店長は私に以下のようなことを言ったのです。
役職を与えるので、バイトのリーダー格になってほしい。今後は自分のことだけやっているのではなく、周りに指示を出しながらやってくれ。
え、自分よりも仕事ができる人が他にいるののにどうして自分なんですか?
確かにお前は仕事ができるというわけではない。私はお前の仕事に取り組む姿勢を買っているんだよ。
キャプテンが谷口に言った言葉に感動した私は、数年後にバイト先の店長からまったく同じ言葉をかけられたのです。これには感慨深いものがありました。
そして今
私は中学一年のときから今でもまったく同じ気持ちを持ち続けています。それは「才能や能力のない自分でも努力することくらいはできる」「できるはずのことくらいはしっかりやろう」ということです。そして、その裏返しとして、「(本来すべきことなのに)できるはずのことをやらないのは恥ずべきことである」ということです。