前回の記事に出てきた炭酸飲料を振れば炭酸が復活すると思って行動した子供の行為は、卓越性を徳と見なすアリストテレスに言わせれば、知識不足から誤った判断を下しているため、徳という観点で劣ることになります。
他方でカントは、卓越性における良さと倫理的な善さを区別します。具体的には以下のような言い方をしています。
理解力、機智、判断力及び、その他の内的な才能と呼ばれるものや、あるいは性格の特性としての勇気、果断、意図を貫徹するための忍耐なども、疑いなく他の点において良く、かつ、願わしいものである。(カント『人倫の形而上学の基礎づけ』)
カントは卓越性などどうでもいいと考えているわけでは決してありません。むしろ、それがよいものであり、望ましいものであることを積極的に認めているのです。ただ、その良さというのは倫理的な善ではないのであり、そのため区別すべきであることを説いているのです。
卓越性自体は倫理的には無記であり、それは意志次第で良い方向にも、悪い方向にも使えてしまう、いわば諸刃の剣であるという話はすでに別の記事においてしているので、興味がある方はそちらを参照してください。
また先の記事でも取り上げた古典的功利主義者であるジョン・スチュワート・ミルの理論によれば、炭酸が抜けてしまいがっかりしているところに、さらに追い打ちをかけるように炭酸を抜いたことで私に不快な思いをさせた(不快の総量を増大させた)子供の行為は倫理的には悪であることになるでしょう。
このような結果(のみ)によって行為の価値を判断する姿勢は、現に今の日本社会に色濃く認められます。ひとつ具体的な例を挙げると、誰もが「結果がすべて」「結果良ければすべて良し」というような言葉を聞いたことがあるはずです。それもそう珍しいことではないと思います。私自身、(とりわけ結果が残せなかったときに)何度も言われたことがあります。
このような言明に対してカントは真向から異を唱えます。彼は先の引用文の直後において、以下のように続けています。
幸運の賜物についてでも事情は同じである。権力、富、名誉、そして健康さえも、また生活全体の安泰、及び、自分の境遇についての満足など幸福の名で呼ばれているものも人に力を与えるのである。(カント『人倫の形而上学の基礎づけ』)
カントは、権力、富、名誉、健康といったものが、自身の幸福に寄与すること、そして、自身の幸福は条件付きながら良いものであることを認めているのです。ただし、無条件的な善である倫理的善からはやはり明確に区別されるのです。
カントは結果の良し悪しが、倫理的な善悪と無関係であることを以下のように断っています。
善い意志は宝石のように、まことに自分だけで、その十分な価値を自身のうちに持ち、光り輝くのである。役に立つとか、あるいは成果がないといったことは、この価値に何も増さず、何も減ずることはないのである。(カント『人倫の形而上学の基礎づけ』)
倫理性が結果によって左右、ましてや決定されるとすれば、それは結果論に陥ることになります。カントはそのような可能性を完全に排除するのです。
私は一貫して、倫理的なよさについては「善い」という漢字、結果のよさを含めた、それ以外のよさについて「良い」という漢字を当てます。また、あえて抽象的に表現したい場合などには、ひらがなで「よい」と表現していくことにします。
仮に良い結果を残したからといって、すべてを肯定してしまい、自らの行いについて内省することがなければ、他の観点(例えば、思考過程、努力、動機)において本来改善すべき点があっても、その点が顧みられないままとなります。
反対に、悪しき結果から、すべてを否定したりすることは、本来評価されるべき点がある人たちが不当に低い評価を受けることになります。これでは(卓越性の不足が関係して)なかなか結果が伴わない人は、その都度、行為の価値が全否定されてしまうことになります。これでは彼らは救われません。
結果しか評価されない社会において、結果が残せない者は生き残れない、脱落していくのは必然的な帰結と言えます。私には日本の結果偏重主義的な空気が、高い精神疾患者数や自殺率と無関係であるとは思えないのです。卓越性がうまく磨けない人、結果が残せない人に対して、内面に関心を向け、評価することによって、救われる心や命があるのではないでしょうか。