ドイツの大学も日本同様、4月から学期が始まります。私は今学期のゼミでは、カントの教育論について扱うことにしました。ゼミは教職課程の学生の単位認定ゼミになっており、そのため教員志望の学生の割合が高くなっています。
カントによる、人の内面を大切にする思想が、どのように教育現場に適用できるかということについて学生たちと議論していきたいと思っています。
そこで議論の呼び水として、学生に以下のような問いを発してみたいと思っています。
「体罰」とは学校教育法で禁止されており、この言葉自体に否定的な意味があるので、ここでは中立的に「力による苦痛の伴う外的強制」という程度に理解してほしいと思います。
おそらく、多数の学生が「許されない」と答えると思います。ただ、少数ながら、条件によっては「認める」という意見も出てくるのではないでしょうか。ちなみに、日本の大学生を対象にしたある調査結果では、体罰に肯定的な意見と否定的な意見がかなり拮抗した結果が出ています。論文は以下のサイトからダウンロードすることができます。
意見が割れれば、議論は成立します。積極的に意見を交わしてほしいと思っています。
前回の記事では、良心が誤りを犯すこと、そして、道徳法則に「正解」「不正解」などないことについて触れました。もしそうだとすると、仮にある教師が体罰(力による苦痛の伴う外的強制)を道徳法則と見なしたのであれば、それが道徳的善となる可能性も排除できないことになるのではないでしょうか。
なかには「体罰(力による苦痛の伴う外的強制)を道徳法則と見なすなんておかしい」と言う人がいるかもしれません。そして、その論拠を挙げることができるかもしれません。
しかし、ここでの問いは、(たとえ他人にとってはおかしな判断であっても)本人にとってはそれが正しいということが起こりうるのではないか、ということなのです。実際に、先に挙げた調査結果では、半数近くの人が体罰に肯定的な側面を認めているわけですから、十分起こりうる事態であると言えるはずです。
ただ、ここには、ある種の論旨のねじれを見てとることができます。――カントは自分の頭で考え、決断し、それに則って振舞うことを求める論者であり、教育現場とはそのための力を養う場であったはずです。そこで体罰(力による苦痛の伴う外的強制)を用いるということは、まさにそのような理念に反することになるのではないでしょうか。そこでは生徒の考えは蔑ろにされ、教師の価値観を押し付けられていることになるのではないでしょうか。
そこでもう一度聞きます、
今回は問いを発するに留め、具体的な考察は次回に回したいと思います。
体罰(力による苦痛の伴う外的強制)に関する多様な意見を募集しています。