前々回と前回の記事において、自身の能力を伸ばすことをカントが不完全義務に数え挙げていることについて紹介し、その中身についても考察しました。
今回の記事では、この点に関する、よくある誤解について取り上げたいと思います。
たまたま今学期のゼミでも、ひとりの学生が類似の質問をしてきたので、その内容に絡めて考察していきたいと思います。
例を挙げて説明すると、ある外科医が、より多くの人の命を救うことを義務と見なして、より上手に手術ができるように努めたものの(例えば、能力的な限界によって)実際にはまったく上達しないということもありえると思います。つまり、手術の腕を上げるべきという当為を自覚し、実際に努力したとしても、手術の腕が実際に上がる(つまり、可能である)とは限らないのではないでしょうか。
ところがカントは、当為(すべき)は必然的に可能(できる)を含むものでることを繰り返し説いているのです。
人はあることをなすべきであると自覚するがゆえに、それをなしうると判断し、自らのうちに自由を認識する。(カント『実践理性批判』)
人は、そのことをなすべきであるが故に、それをなしうると自覚するのである。(カント「理論と実践」)
この問いに対峙するに際して重要なことは、カントが義務という場合に念頭に置いているのは、何かを成功する、成し遂げるといったことではなく、何かを「やろう」と意志することである点です。
カントは倫理的善の所在について以下のように述べています。
善い意志は宝石のように、まことに自分だけで、その十分な価値を自身のうちに持ち、光り輝くのである。役に立つとか、あるいは成果がないといったことは、この価値に何も増さず、何も減ずることはないのである。(カント『人倫の形而上学の基礎づけ』)
外科医が自身の手術の腕を上げるべきこと(当為)を自覚することは、それができること(可能)を確かに意味しません。しかし、自らの手術の腕を上げようと意志することは必ずできる(つまり可能である)はずです。そして、その意志が非利己的で純粋であれば、そこに倫理的善性が認められるのです。
このことは以下のように言い換えることもできます。手術の腕を上げようと試みたからといって、実際にそうなる保証はありません。しかし、少なくとも、それに向かって努力することはできるはずです。善意志から行為するよう努力したことの自覚があれば、それで倫理性に関しては十分なのです。
義務概念の純粋性を求めて努力していることを自覚しうるし、また実際に、彼はこのことをなしうるのである。彼が義務を遵守するにはこれで十分なのである。(カント「理論と実践」)
要するに、倫理的善とは、善意志から行為するよう努力することに他ならないのであり、それはその気さえあれば、誰もが、そして、必ずできることなのです。
前回の記事において紹介した、ゾルグナーとの決定的な相違がここにあると言えます。
ゾルグナーは、私たちがより高い能力を備えることが義務であると説いていました。カントの場合は、より高い能力が備えられるように善意志から行為するよう努力するところに義務があるのです。つまり、結果が伴わなくても構わないのです。
加えて、この点は徳倫理学や功利主義との相違点であるとも言えます。
ここにも簡潔にまとめておきます。
アリストテレスに起源を持つ徳倫理学の立場では、手術の下手な医者は徳において劣るものと見なされます。
卓越性を備えていない医者は徳に劣る!
手術が下手であるために、患者を救えないような医者は、功利主義の立場では、倫理性において劣ることになります。
結果を残せない医者は倫理性において劣る!
他方で、カント倫理学は、自分の手術の腕を上げようと意志し、善意志から行為するよう努力したのであれば、そこに倫理的善性を認めるのです。
君は善意志から行為するよう努力したのか?私が憤るのは、君ができるはずのことをしようとしないときである(私はできないことは要求しないよ♡)。
カントに言わせれば、倫理的善をなすつもりであったのに、それをしそびれるということは起こりえないのです。先ほど引用文と共に指摘したとおり、カントにとって、当為(すべき)は必ず可能(できる)を含むのです。
誰もが確実に倫理的善をなすことができるよう、その筋道を示した点にカント倫理学の出色が見出されるのだと私は思っています。