前回の記事において、私は意識的に自分の子供に「どうしてそれをなしたのか?」と行為の根拠について尋ねるようにしていることについて書きました。それは特に私が息子の行動を問題視したときであり、例えば、子供が奇声を発したとき、「幼稚園に行きたくない!」と言ったとき、嫌々ばかり言うときなどです。
たいした理由がない、というか、まともに答えられないことが多いのですが、まだ四歳になったばかりだから、仕方ないのかもしれません。
それでも、自分の行動にまともな論拠が備わっていなかったことでも自覚できれば、それはそれで意味があると思っています。ソクラテスのような言い方ですが、分かっていなかったことが分かることも知識の上での前進であり、次からは別様に振舞うきっかけとなるのではないでしょうか。
私は、何らかの規範を大人が子供に押し付けても、害悪の方が大きいのではないかと思っています。というのも、子供は大人の目の届く範囲では確かに命令に従うかもしれませんが、子供がその根拠について理解していない以上、大人の目の届かない場所では効果は次第に薄れていく、そして、そのうちまったく効果を発揮しなくなるだろうからです。
自分の頭で考えることなく、他者に言われたことを盲目的に従ってしまうような状態を、カントは「他」によって、「律」せられているということで、「他律」と呼びます。また、不思慮や感情に流されている状態も他律ということになります。他律である以上、そこには倫理的価値は認められません。
倫理t的に振舞うためには、主体的に考え、規範を導き、それに従って振舞うことが求められるのです。カントはそのような状態を「自」らを「律」しているということで「自律」と呼びます。倫理的善のためには自律的に振舞わなければならないのです。
カントは自律によってのみ、倫理的善が可能となると説くのです。
意志の自律がすべての道徳法則と、それらに適合する義務の唯一の原理である。これに反して、選択意志のすべての他律は拘束性の基礎とはまったくならないばかりか、むしろ拘束性と意志が持つ道徳性の原理に対立するのである。(カント『実践理性批判』)
自律のためには、自分で理解し、納得している必要があります。そのためには自らのうちに根拠を持っている必要があります。
実践哲学は、より強い責務が優位を占めるとは言わずに、より強い義務付けの根拠が場所を占めると言うのである。(カント『人倫の形而上学』)
カント自身が強調を付して、倫理的義務には根拠が必要であるこをとを説いているのです。
前回の記事において、私は息子に行為の根拠を尋ねるようにしているという話をしましたが、ここにそのゆえんがあるのです。
自身の行為の根拠について明確に説明できるようになってはじめて、そこから導き出された規範は自分自身を主体的に、つまり、他人の目や時間的・空間的制約を抜きに効果を発揮するのです。
同じことを別様に言えば、「なんだかよく分からないけれど、自分でもよく分からないうちに倫理的善をしてしまっていた」などいったことは絶対に起こりえないのです。