前々回の記事においてショーペンハウアーは、同情心からの行為に倫理的価値を認めるものの、同情心を持つように自らを促すことなどできないと考えていること、それに関連して、倫理学という学問は、人間がどのように振舞うかという事実に関わるのであり、人間がどのように行為すべきかという当為には関わらないと主張していることに触れました。つまり、ショーペンハウアー自身が、自らの倫理思想が行為指針足りえないことを説いているのです。
同情心つながりで、前回の記事では、カントの同情心についての考察を紹介しました。同情心というものは「持とう」と思ったからといって持てるようなものではありません。そのため、それを持つべき義務というのは存在しないのです。しかし、同情心が湧いてくるような環境を自ら作り出すことは可能であるため、カントは具体的な手段として、貧しい人や病人や罪人と積極的に接することを挙げているのです。ここには確かに、当為が存在するのです。
このようなカントの立場を前に、私は以下のように思うのです。
もっとも、ショーペンハウアーは、これから何が起こるかということはすべて予め決まっていると考える決定論者です。だとすれば、人間の自助努力の可能性は閉ざされていると思われるかもしれません。しかし、そうではないはずなのです。なぜなら(この点は少しトリッキーなのですが)彼は人間の行為選択の可能性は認めているためです。
人間は動物よりもすぐれて選択する権能を備えている。〔中略〕しかし、この選択の権能は、決して個々の意欲の自由、すなわち因果の法則からの独立であるとは認められない(ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』)
この文面から、ショーペンハウアー自身が決定論と行為選択の自由の両立が矛盾すると思われるかもしれないことを自覚していたことが窺えます。実際、そこに矛盾を見出す人もいるでしょう。しかし、少なくとも彼のなかでは矛盾しないのです。
ショーペンハウアーは、私たちは自分がいかに行為するか決めることができる、もう少し正確に言うと、実際には自分で未来を変えているわけではないけれど、そう思い込むことができると考えているのです。
もしそうであるならば、やはり人は、同情心が湧くような環境を整えようとすることも、また、倫理的善をなそうとすることも可能であるはずなのではないでしょうか。そして、もしそういったことが可能なのであれば、やはりそうすべきなのではないでしょうか。
ショーペンハウアー自身が、その可能性、つまり、自身の倫理思想が人々の行為指針になりうる可能性を否定してしまう意図も、そう言い切れる論拠も、私は見出すことができません。私の目には彼が自らの言説の限界を過小に定めることによって、自ら貶めてしまっているように見えるのです。