考える力を伸ばす

カント倫理学

続・コロナウイルスとの向き合い方について

世の中には、コロナウイルスの存在を認めようとしない人、そのため、まったく対策をとろうとしない人たちがいます。どうして彼らはそう考えるに至ったのでしょうか。カントの言葉を頼りに人間の内面について分析してみたいと思います。
カント倫理学

コロナウイルスとの向き合い方について

カントは自分で考え、判断を下すべきことを求めます。しかし、もし誤った情報にもとづいていたなら、考える方向性も、そこから導かれる結論も誤ったものとなるでしょう。コロナウイルスに関しては、私たちは分からないことだらけで、専門家同士でも言っていることがバラバラだったりします。私たちはこのような混沌とした状況下でどうしたらよいのでしょうか。
カント倫理学

なぜ同じ過ちが繰り返されるのか

なぜ差別は止まないのでしょうか。「自分が優越感に浸りたいとか」とか「他人を見下したい」という感情から行為しているのであれば、(賛同はできませんが、理屈の上では)まだ理解できます。しかし、社会的制裁を受けることが分かっていて、それでも行為に及ぶというのはどういうことなのでしょうか。
カント倫理学

カントの考えと私の考えの間の整合性について

カントが「〇〇することは倫理的義務である」と言ったら本当にそれは義務なのでしょうか。反対に、彼が「〇〇することは義務に反する」と言ったら、本当にそれは義務に反するのでしょうか。もしそうだとしたら、私たちは考える必要などなく、カントに盲目的に従っていればいいことになります。本当にそれでいいのでしょうか。
カント倫理学

カントと野村克也

先日亡くなられた野村克也という人物が、なぜこれほど世間の人々から愛され、評価されたのかについて考えてみました。 あぁ、もちろんカントと絡めてですよ。「カントとヒューム」「カントとルソー」「カントとヘーゲル」などではなく、「カントと野村克也」ですよ。この離れ業を楽しんでください。
カント倫理学

ただ投げる、ただ蹴る、ではダメでしょ

お勉強ばかりやってきたような「ガリ勉」タイプの人から、体を動かすことを資本とする人たちを見下すような発言を耳にすることがあります。私の学生時代、ある先生は「あいつらは脳が筋肉でできているから」というようなことをよく言っていました。本当に何も分かっていないのか、それとも、よほど劣等感があるのか、どちらかだと私は思っています。
カント倫理学

カント倫理学を体現できる場

世の中は結果や成果ばかりが求められる風潮にあります。しかし、それ一辺倒では息苦しくなってしまいます。子供たちが過ごす教育現場くらいは結果や成果ばかりを求める場にしなくてもよいのではないでしょうか。
カント倫理学

道徳法則に従っているつもり・・・に過ぎない可能性について

道徳法則に従っているつもりが、実際にはそうでなかったということがありうるのでしょうか。ありうるとすれば、その場合の倫理性はいかに。
カント倫理学

続・啓蒙とは何か?

カントが啓蒙の標語に掲げるsapere audeですが、日本語では「あえて賢かれ」「知る勇気を持て」などと訳されます。しかし、本当にそれでカントの意図はくみ取れるのでしょうか。どうして賢くならなければならないのでしょうか?どうして知らなければならない、そもそも何について知らなければならないのでしょうか?謎です。
カント倫理学

啓蒙とは何か?

普段、私たちは自分で考え、行動しているように思っているかもしれませんが、本当にそうなのでしょうか。周りに流されたり、自分の感情に流されたりしていないと(どれだけ)言えるでしょうか。