私たち人間は理性と感性の両方を備えています。カントも同様に考えています。では(認識論的な意味においてではなく)倫理学的な意味で、それらにどのような役割が備わっているのか確認しておきたいと思います。
感情の役割
もし人間が感情に流されているだけであれば、人は自分の都合のいいように振舞ってしまいます。食べたいものを食べ、飲みたいものを飲み、寝たいときに寝て、仕事や義務は果たしたくないので、しないといった有様です。このような振舞いのうちに倫理的価値を認めることはできません。
「あの犬は倫理的に正しいことをしている」とか「あの赤ちゃんは倫理的善をなした」などと言う人はいないと思います。このことは、彼らが単に感情に支配されており、そのため自分の欲求に従って生きているだけの存在であるためと説明することができます。
理性の役割
他方で我々は、感情のみならず、十分に理性も備えています。ここでは理性の働きを二つに分けて説明したいと思います。
まず、理性があるから私たちは考えることができるのです。とはいえ、考えること自体が目的であるわけではありません。倫理的問題に直面している以上、それは何らかの規範を導くことを目的としているのです。私たちは理性的な考察によって、例えば、暴飲暴食をすべきでないこと、規則正しい生活を送るべきこと、仕事や義務を果たすべきことなどを自覚することができるのです。このような規範をカントは道徳法則と呼びます。理性には道徳法則を導く役割が備わっているのです。
ただ、仮に道徳法則を導いたとしても、感情的にはそれに従いたくないということは往々にして起きえます。そこで、理性の二つ目の働きが期待されるのです。すなわちそれは、仮に感情が抵抗したとしても、自らの強い意志によって、自らを道徳法則に従わせることなのです。
カントはそのような非利己的な意志を善意志と呼び、そこに倫理的価値を認めるのです。
また以前紹介した自律という状態も理性があるこよによって可能となると言えます。
理性があるから、人は自分自身を律することができるのです。カントにとって、自律は倫理的善のための必要条件なのです。
道徳法則を導く方法
ところで、私たちは具体的にどのようにして、どのような手続きによって道徳法則を導くことができるのでしょうか。――カントは、主観的な視点にのみ立っている限り、結局自分中心の発想から脱することができないのであり、客観的な視点に立つべきことを説くのです。
もう少し具体的に説明しますと、ある行為原理が自分だけでなく、みんなが採用した事態を想像してみるのです。そして、その世界が望ましいものであるかどうか吟味してみるのです。もしそれが望ましいものであれば、その行為は道徳法則に合致するということなのです。
そのことをカント自身は以下のように表現しています。
汝が、それが普遍的法則となることを欲するような行為原理に従ってのみ行為せよ。(カント『人倫の形而上学の基礎づけ』)
私は先日、郵便局に行きました。お金を払った後で、封筒代が含まれていなかったことに気がつきました。封筒はその場にあった郵便局のものを使ったのですが、郵便局員は私が封筒を持参したのかと思い込んでいたのです。そのまま黙って立ち去っても、誰にも気づかれないでしょうが、私は正直に真実を伝え、不足分の代金を後から払いました。なぜなら、みんなが「相手がミスをしたために金額を過小に請求されたことに気がついているのに気がついていないふりをして立ち去る」という行為原理を採用するような世界が望ましいものであると思えなかったからです。万人が遵守することを望む行為原理は、すなわち道徳法則であり、その道徳法則とは本来万人に妥当するはずのものであり、自分だけを特別扱いすることは許されないのです。