二人の上司がいるとします。
上司A 自分のやっていることがパワハラだと分かっているのに、やってしまう。
上司B 単なる不思慮で動いており、自分がパワハラをしていることへの自覚がない。
二人の倫理性について考えてみたいと思います。
まず上司Aの振舞いについてです。多くの人が倫理的に許されるものでないと受け止めるはずです。カントもそう考えるでしょうし、私も同様です。
問題は上司Bの方です。みなさんはどう思われるでしょうか。
カントに言わせると、上司Bの振舞いは倫理的悪ではありません。カントにおける倫理的悪の定義についてはすでに別の記事(「続・悪とは何か?」)において書きました(あくまで、いくつか見られる定義のうちのひとつですが)。
ここにも簡単に確認しておくと、倫理的善と同様に、倫理的悪も意志のうちにのみ認められるのです。それは薄々気がついているけど気がついていない振りをするという自己欺瞞を含めて、必ず自覚的になされるものなのです。同じことを別の方向から表現すると、自分でも知らない間に倫理的悪をなしていたということはカント的にはありえないことなのです。
このようなカントの考え方に異を唱えた人物がいます。それはユダヤ系ドイツ人、ハンナ・アーレントです。
彼女の生き方を描いた映画も作成されており、タイトルはそのままズバリ、『ハンナ・アーレント』です(写真にあるように、映画の中でも彼女は常にタバコを吸っています)。
人は自らの頭で考えることを放棄してしまえば、そこには意志が働かないことになります。彼女はそれによって倫理的悪を犯すことはなくなる(いわば怠慢にもよい側面がある)という理屈はおかしいと考え、まさにそのような思考の怠慢こそが倫理的悪であると結論付けたのです。
先の上司の問いに絡めて言えば、上司Bがパワハラをしてしまう原因は、彼の不思慮にあるのです。アーレントはそこに倫理的悪性を見出すのです。
この記事の最後に同じ質問をもう一度します。ひょっとすると、この後の文章を読んだ後で、考え方が変わるかもしれないからです。
前回の記事において、職場などの自分が属する組織から、承服しがたい命令や指示を受けた場合にどうすべきかという話をしました。そこでカントが、具体的に軍隊を例に挙げて考察を加えている内容について紹介しました。その記事を読んでいて、アドルフ・アイヒマンを思い起こした人がいるかもしれません。ヒトラーの命令を受けて大量のユダヤ人を強制収容所に送った(少なくともその作業に加担した)人物です。
アイヒマンは戦後捕らえられ、裁判にかけられました。その姿を傍聴席で見ていたアーレントは、彼が何の思想も持たずに、ただ上からの命令に従っただけの小役人であるという印象を持ちました。
その裁判の傍聴記録は今日、『エルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』として、本の形にまとめられています。
そこで彼女は、アイヒマンに対して(本のサブタイトルにあるように)一般の人がイメージしているような極悪人などではなく、誰もが犯すかもしれない「凡庸な悪」“Banality of Evil“の持ち主に過ぎないと評したのです。
ここでアーレントの言う、「凡庸な悪」とはいかなることなのでしょうか。彼女は以下のように説明してます。
彼は愚かではなかった。完全な無思想性――これは愚かさとは決して同じではない――、それが彼があの時代の最大の犯罪者のひとりになる素因だったのだ。このことが「凡庸」であり、それのみが滑稽であるとしても〔以下略〕。(アーレント『エルサレムのアイヒマン』)
アーレントが用いたこの「凡庸」という表現が、アイヒマンの悪性を過小評価するものと見なされ、発表当時は多くの批判を浴びたのでした。
とはいえアーレントは、アイヒマンのうちに凡庸ながらも、紛れもない悪性を見出しているのです。他方、カントの理屈では、もしアイヒマンが本当に自分のやっていることの倫理的意味を自覚せずに、盲目的に動き組織の歯車になっていたのだとすると、その行為は倫理的悪ではないことになるのです。このような帰結に対して共感できない、それどころか拒否反応を示す人も出てくるのではないでしょうか(アーレントに対して拒否反応を示す人が大勢いたように)。
そこでもう一度聞きます。
もしくはまったく別の立場でしょうか。意見があれば、コメントください。
次回も引き続き、この問題について扱いたいと思っています。