私の体験談
先日バスに乗っているときに、車椅子の人がバスを待っているのが見えました。
そこで、バスが止まった後で、私はバスに取り付けられているスロープを出して、車椅子を後ろから押して、バスに乗せて、またスロープを戻しました。
車椅子の人からは感謝されました。
一連の作業を終えた後で私が自覚したのが、卓越性の必要性です。まず私は車椅子の人に気づかなければなりません。そして、何をすべきか分かり、それを行動に移す勇気がなくてはなりません。加えて、スロープを出したり、車椅子を押したりする体力が必要になります。
そういった卓越性が欠けているようであれば、困っている人を助けることができないのです。そう考えると、アリストテレスが卓越性のうちに倫理的徳を見出した気持ちも分からないではありません。
できない場合の徳へのマイナス評価
ただ私がひっかかるのは、車椅子の人に気が付かなかったり、気が付いていても何をしてよいのか分からなかったり、分かっていても力を発揮できる状態でない場合など、結果として車椅子の人を助けられないような場合に、それを本当に倫理的な落ち度と見なしてもよいのかという点です。
そんなことを言い出したら、車椅子で自分で歩くことができない、そのため非常に制約を負って生活しなければならない人は、卓越性の上で劣り、ひいては倫理的にも劣ることになってしまいます。
そのアリストテレス観であり、徳倫理学への理解は合っているの?と思った人がいるかもしれませんが、これは私だけが言っているのではなく、アリストテレス主義者自身も類似の問題点を指摘しています。
なぜ卓越性の不足を倫理的落ち度に結びつけることに抵抗があるのかというと、自分の力ではどうすることもできない側面が絡んでくるためだと思います。例えば、車椅子で生活している人は、生まれつき、その宿命にあったのかもしれません。それをその人の落ち度だと見なすのは、いささか理不尽なのではないでしょうか(「前世で悪いことしたからだ!」的な)。
ちなみに、卓越性とは、勝っていること、優れていることです。それは努力によって補うことができる側面もあります。他方で、アリストテレスの場合、運の良さのようなものも卓越性に含まれるのです。つまり、運悪くハンディキャップを持って生まれてきた人は、徳の面で劣ることになってしまうのです。
男女の差異
生まれつき定まっており、自分の力ではどうすることもできないもののひとつとして、性別があります。
車椅子でバスに乗った人が私に興味深いことを言いました。
手を貸してくれるのは、たいていは女性で、男性は珍しいよ。
もしこの言明が事実だとすると、なぜ女性の方が手を差し伸べるのでしょうか。なぜ男性の方が動かないのでしょうか。そして、アリストテレス的には、女性の方が少なくともこの点では卓越性を有し、そして、倫理的徳において勝ることになるのではないでしょうか。
おそらくアリストテレス自身は認めないでしょうが・・・。