カント倫理学 「利他」という言葉の使い方おかしくないですか? 「利他」という用語は「他人のためになされた(自分のためではない)」という意味で使われる場合と「実際に他人に資する」という意味で使われる場合があります。このような一貫性のない使用法のもとでは、やり取りは噛み合いません。そこで私は本記事においてこの語の定義についてひとつの提言をしたいと思います。 2019.06.17 カント倫理学メタ倫理学
カント倫理学 カントの反論 カントは「自分の行為の動機ですら知りえない、そのため利他的に振舞ったつもりでも、実際には利己心が潜んでいるのである」という批判にどう反論するのでしょうか。 2019.06.09 カント倫理学
カント倫理学 利他的に振舞うことなど本当にできるのか ショーペンハウアーは自身の動機ですら知りえないのであり、善意志から行為したつもりであっても、それは所詮「つもり」に過ぎず、実際には利己的に振舞っていると主張するのです。 2019.06.02 カント倫理学ショーペンハウアーの思想
カント倫理学 自身の行為の動機について知りうるのか 私たちは自身の動機について知りうるのでしょうか。もし知りえないのであれば、本人は善意志から行為したつもりでも、実際には利己的に行為しているということが起こりうるのではないでしょうか。 2019.05.25 カント倫理学ショーペンハウアーの思想
カント倫理学 道徳法則に従っているつもり(・・・)に過ぎない可能性について 道徳法則に従っているつもりが、実際にはそうでなかったということがありうるのでしょうか。ありうるとすれば、その場合の倫理性はいかに。 2019.05.19 カント倫理学啓蒙思想
カント倫理学 続・啓蒙とは何か? カントが啓蒙の標語に掲げるsapere audeですが、日本語では「あえて賢かれ」「知る勇気を持て」などと訳されます。しかし、本当にそれでカントの意図はくみ取れるのでしょうか。どうして賢くならなければならないのでしょうか?どうして知らなければならない、そもそも何について知らなければならないのでしょうか?謎です。 2019.05.12 カント倫理学啓蒙思想
カント倫理学 啓蒙とは何か? 普段、私たちは自分で考え、行動しているように思っているかもしれませんが、本当にそうなのでしょうか。周りに流されたり、自分の感情に流されたりしていないと(どれだけ)言えるでしょうか。 2019.05.04 カント倫理学啓蒙思想
カント倫理学 続・教育現場の抱えるジレンマ 教育という、他人(親や教師)による外的強制のなかで、どのようにして自律という自分で自分を律するための(内的強制の)力を養うことができるのでしょうか。 2019.04.21 カント倫理学啓蒙思想教育学