哲学をする人は頭でっかちが多いので、少しは体を動かした方がいいと思います。

『その悩み、カントだったら、こう言うね。』
本では世間の人が抱えるであろう悩みに答えていくことで、カント倫理学が私たちの生きる指針たりうるかということを示していきます。とはいえ、カント倫理学には不十分なところがあることも事実です。その点は後世を生きる私たちが手を加えていかなければなりません。本書では、そこまで踏み込んでいます。

妥当性がないことが分かっていながら発言していて虚しくないのか
自分が贔屓のチームを応援するために、一貫性のない発言をする人というのは、自分の言明が偏っていることを自覚しているのでしょうか。スポーツと日常生活では別とでも言うのでしょうか。私は信じられません。

部活動の閉鎖性について
なぜ秀岳館高校サッカー部で起きたような不祥事が起きてしまうのでしょうか。カントの言葉を頼りに考えてみたいと思います。

説明しない理由が思い浮かばない
判定に不服そうな佐々木朗希投手に白井一行球審が詰め寄りました。彼はタイムをかけたのでしょうか。何が気に食わなかったのでしょうか。あの対応が適切だったと考えているのでしょうか。自ら口を開かないのであれば、見ている方は何も分かりません。興行であるはずのプロスポーツとして、それでいいのでしょうか。

判断の正しさとは
佐々木朗希投手が完全試合をしました。それを受けて、高校時代の監督が佐々木投手のケガの回避にために、甲子園目前で登板を回避した判断を評価する声が上がっています。完全試合をするとケガを回避しようとしたことが正当化されるんですか?活躍しなければ正当化されないんですか?私には完全試合とケガを回避しようとすることはまったく関係のないことだと思うのですが・・・

そこに根拠はあるのか
テニスの世界ランキング一位のノバク・ジョコビッチが申請書の不備を理由に大会直前にオーストラリア政府から国外退去処分を受けました。しかし、彼に付きまとっている疑惑はそれだけではないのです。テストで陰性反応が出ているのに人と接触したり、その際にマスクをしなかったり、コロナウイルス感染拡大に関して気を使っている様子がまったく窺えないのです。そんな彼にどんな言い分があるのでしょうか。私なりに調べたのですが、正直よく分かりません。

「勇気を持て」という言明に意味はあるのでしょうか?
アリストテレスは「勇気」を徳目のひとつと見なします。しかし、人は何を持って、そこに「勇気」を見出すのでしょうか。というのも挑戦することが「勇気」と言われる場合もあれば、反対に、引き下がることを「勇気」と表現することもあるためです。つまり、いかようにも解釈できてしまうためです。はたして「勇気を持て」と言うことにどれだけの意味があるのでしょうか。

はたして結果至上主義と教育は両立するのでしょうか
1992年、星稜高校の松井秀喜選手が五打席連続で敬遠されるという出来事がありました。そして、そのことが社会的な議論を巻き起こしました。はたしてこのような結果至上主義の作戦と教育は両立するのでしょうか。敬遠の指示を出した馬淵監督の言明を頼りに考えてみたいと思います。

思考過程の正しさについて
思考過程の正しさは、そこからもたらされた結果によって判定されるべきではなく、思考内容自体によって良し悪しが判断されるべきなのです。しかし、現実にはそうなっていません。オリンピックスポーツ、とりわけ野球を例にして、その問題点を明らかにしたいと思います。

オリンピックのゴタゴタを見て、カントは何を言う
良心が誤りを犯すといったことがありうるのでしょうか。暴走するといったことがありうるのでしょうか。2021年東京オリンピック開催の是非を巡る議論に絡めて、カントの思想を頼りに、この問いに対峙してみたいと思います。