以下のようなことを言う人がいます。
サッカーのルールは単純。
そういう人には以下のように尋ねてみてください。
ではハンドのルールについて説明して。
本当にすんなりと答えられたらすごいですが、(まあ「すんなり」の定義にもよりますが)私は無理だと思います。
もともとハンドかどうかは、様々な要素、例えば、手にボールが当たった選手の動きが自然であったかどうか、近距離から打たれたものであったかどうか(つまり避けようがなかったかどうか)といったことが加味されて判定されていました。
そのただでさえ複雑だったルールが、今年から変更され、余計ややこしくなりました。例えば、攻撃側の選手であれば意図的であるかどうか関係なくハンドになり、守備側であればハンドにならないといったダブルスタンダ―ドともとれるルールに変わったのです。しかし、どのタイミングで「攻撃」に転じたのか、どこを「攻撃」の起点とするか、といったことはかなり恣意的な判断になります。
以下のビデオはドイツ語が分からないと内容は理解できないと思いますが、同じ状況でもいくらでも解釈の可能性があることを示していることは伝わるのではないでしょうか。
ひとつひとつのハンドの判定が妥当であったのかどうかについて、それどころか、そもそもルールが妥当なのかについて、ドイツでも頻繁に議論になります。
私が興味深いと思うのは、例えば、(チームはどこでもいいのですが、とりあえず)ドルトムントとシャルケの試合で、ドルトムントの選手の手にボールが当たったのに、審判がハンドの判定を下さなかったような場合、シャルケの選手も監督も、その場ですぐにハンドをアピールします。試合後には、メディアの前で、「どう見てもハンドだ」「議論の余地はない」などと言って誤審であったことを主張するのです。
反対に、ドルトムントの選手や監督は、「どう見てもハンドではない」「議論の余地はない」、それに加えて、「審判もそう判断を下している」などと言って、審判の判定を擁護するのです。
不利な判定を受けた側が審判の判定に不満を述べる姿はよく見ますが、有利な判定を受けた側が審判の判定に苦言を呈するようなことはほとんどありません。
ここで疑問になるのは、「彼らには本当にそう見えているのか」、それとも、「本当はそう見えていないけれど自分の有利になるように発言しているのか」という点です。違いは自覚的であるか、それとも、そうではないかという点にあるものの、根は同じだと私は思っています。
それらは共に、利己心から出ているのです。とはいえ、カントに言わせれば、利己心そのものは悪しきものではありません。そのため、根絶すべきものでもありません。
しかし、その利己心が現実を自分の都合の良いように見せたり、発言させたりしているのであれば、それを理性によって抑制する必要があります。もし、それを意図的に怠るようであれば、それはカントによって倫理的悪と見なされ、断罪されるのです。
それを避けるために、カントは普遍化の思考実験によって、主観的な立場からだけではなく、客観的な視点に立って、どのような行為原理が望ましいものであるか吟味することを求めます。ハンドの有無に絡めて言えば、自分の立場や都合を捨象して、本当にハンドであるかどうか分析し、判断を下すのです。仮に自分たちにとってそれが不都合なことであっても、それが事実であると本心で思っているのであれば、それを認めるべきなのです。
前々回や前回の記事で取り上げた、ロールズの無知のヴェールの発想を用いた説明も可能です。自分の属性について一切知らない、具体的には、自分がドルトムント側の人間なのか、それとも、シャルケ側の人間なのかについて一切知らないかのように想定して、それでもハンドなのかどうか考えてみるのです。そうすれば、一方的な見方や発言には結びつかないはずなのです。
自分に都合の良い発言に終始する、例えば、明らかにハンドなのに、ハンドではなかったと発言するような人は、状況が変われば180度逆のことを言い出すのです。私は、そういった人間を信頼することはできませんし、応援しようとも私は思いません。
みなさんはどう思われますか。
記事の内容に反して、「いやいや、スポーツなんてそんなもの(それでいいんだ)!」といった意見はありますか?