前回の記事において、古典的な功利主義を「結果そのもの」のうちに倫理的価値を認める立場、つまり、「結果功利主義」として解することの困難について指摘しました。
結果功利主義の問題点
前回、並びに、前々回の記事において触れた結果功利主義の問題点についてまとめておきます。
・「結果良ければすべてよし」の結果論になってしまう
・行為者の内面は等閑視される
これら二点が含むさらなる細かな問題点や、まったく別の問題点もありますが、ここではいちいち取り上げません。
過程功利主義の可能性
他方で、これまでの記事において、功利主義が倫理的価値を置く「結果」について、「結果そのもの」ではなく、「結果への考慮」と捉える解釈の可能性についても紹介しました。
「功利主義」と聞いて、多くの人がイメージするのは、おそらく「結果そのもの」を倫理基準とする「結果功利主義」だと思いますが、「結果への考慮」を倫理基準とする「過程功利主義」が解釈として成り立ちうる根拠(典拠)についても、前回の記事において示しました。
私個人としては、後者の「過程功利主義」の方が倫理学説として可能性があると思っています。
私がそう考える理由のひとつに、カント倫理学との接点をいくつか指摘することができる点があります。
カント倫理学との接点
もしミルの学説が「過程功利主義」であるとすれば、倫理的価値は行為者の内面のうちにあることになり、カント倫理学と、この点では一致していることになります(ただし、ミルは「意図」という用語を使い、カントは「意志」と表現しています)。
また、両者の間には、さらなる類似点を指摘することができます。ミルは幸福の総量の増大化を企図しているわけですが、そこには必ずしも自身の幸福は含まれないということです。
何が正しい行為なのかを決める功利主義的基準を構成している幸福とは、行為者自身の幸福ではなく、関係者すべての幸福である。(ミル『功利主義論』)
つまり、自身が犠牲になることで、社会全体の幸福の総量が増加するのであれば、そうすべきなのです。
功利主義倫理は、他人の善〔幸福〕のためならば自分の最大の善〔幸福〕すら犠牲にする力が人間にあることを認めている。(ミル『功利主義論』)
そのような考えのもとでなされた行為は非利己的であり、カントの説く「善意志からの行為」に近いことが看取されると思います。
ミルとカントの立場が同一などと言うつもりは毛頭ありません。手続き的にも、倫理的善の所在についても、両者の立場は明確に別物です。しかしながら場合によっては、「非利己的な行為を推奨し、そこに倫理的価値を認める」という点において両者は確かに一致しているのです。
まとめ
私は「結果功利主義」よりも、「過程功利主義」の方が見るべきところがあると思っています。しかし、「ミルを過程功利主義者として解釈すべきだ」などと言うつもりはありません。「「過程功利主義」の方が「結果功利主義」の方がすぐれている」という命題は、「ミルが念頭においていたのは「過程功利主義」であった」という命題には結びつきません。
むしろ、ミルは「過程功利主義」など想定していなかった、もっと正確に言えば、そもそも「結果功利主義」と「過程功利主義」の相違に無自覚であったというのが私の見立てです。その点の相違を自覚していたのであれば、あのような、どちらともとれる説明を延々とするはずがないからです。
同じようなことは、「ミルやベンサムの理論が、「行為功利主義」なのか、それとも「規則功利主義」なのか」という議論にも当てはまります。本人たちは、その違いを自覚していないからこそ、どちらともとれる記述が見られ、実際に解釈が分かれているのです。無理やり「行為功利主義」と「規則功利主義」のどちらかに押し込もうとするような議論には私は違和感を覚えます。
ミルは『功利主義論』の紙面の多くを、功利主義に向けられた批判の反論に当てられています。当時からあまり快く思われていなかったということが、そこから垣間見られます。しかし、もしミルが、明確に「過程功利主義」の立場を打ち出していたならば、功利主義はもう少し肯定的に受け入れられていたのではないかと私は思うのですが、みなさんはいかが思われるでしょうか。