ショーペンハウアーはカント倫理学に対して、様々な角度から批判を加えています。そのうちの二つについては、すでに本ブログにおいて取り上げたことがあります。
ひとつは、カントは善意志からの行為に倫理的価値を認めるものの、実際には人間の行為には必ず利己心が入り込むのであり、そのためカントの言う意味での善意志からの行為(倫理的善)は不可能であるというものです。

もうひとつは、カントは感情(とりわけ同情心)の肯定的な役割を無視しているというものです。

今回は、ショーペンハウアーによるもうひとつのカント倫理学批判を紹介したいと思います。それはショーペンハウアーの『倫理学の基礎』という著作のタイトルにも表れています。つまりそこでは、カント倫理学の基礎部分に関する批判が展開されているのです。しかもショーペンハウアーは、それこそが自らの著作の執筆目的であるとまで述べているのです。
私のもくろみは、カントの実践理性や普遍化の思考実験がまったく不当な、無根拠な、捏造された仮説であることを証明し、カント倫理学も堅固な基礎を欠いていることを立証することである。(ショーペンハウアー『倫理学の基礎』)
実際のところどうなのでしょうか。カント倫理学には堅固な基礎が備わっていないのでしょうか。
今回の記事ではその是非について考えてみたいと思います。
例えば、私たちはカント倫理学に対して以下のような問いを発することができます。
結論を言うと、担保などされていません。
これは公理として考える他ないのです。公理とは、その妥当性を証明することはできないものの、とりあえず正しいものとして仮定する命題のことです。理論はその上に組み立てられるのです。
だとすると、カント倫理学の土台部分の妥当性は確かに証明不可能であるということになります。
ここで立ち止まって考えてみたいのですが、そもそも公理を一切持たないで、土台部分の妥当性が証明可能な倫理学説など存在しうるのでしょうか。さらに言えば、倫理学に限らず、すべての学問を含めて、そのような完全無欠な学問上の理論など存在するのでしょうか。
一般的には、数学という学問は、堅固な基礎を備えた学問と思われているかもしれません。しかし、数学の一分野である幾何学こそが公理をはじめて導入した学問なのです。そして実際には、数学を含めた、すべての学問は証明不可能な公理の上に成り立っているのです。
そのことを踏まえれば、カント倫理学が公理の上に成り立っていることを指して、堅固な基礎を備えていないことを批判することにどれだけの意味があるのか疑わしく思えてくるのではないでしょうか。私自身は、カント倫理学が公理の上に成り立っていること自体は、何の落ち度でもないと考えています。
しかしながら、カントが公理のように扱っている命題の中身については、異論の余地がないわけではないと私自身は感じています。
ここに詳しく論じるつもりはありませんが、少しだけ触れておくと、私は先ほど公理について、その妥当性について証明することはできないものの、とりあえずは正しいものとして仮定する命題である、という説明をしました。要するに、妥当性はまったく必要ないということではなく、「とりあえずはいいか」と思える程度の妥当性は求められるのです。
翻って、「非利己的である純粋な善意志からの行為のみが倫理的善である」という命題はどうでしょう、とりあえずの妥当性を認めてもよいのでしょうか。
もう少し具体的に問うと、本当に倫理的に善なる行為とは善意志からの行為しかないのでしょうか。考え(直し)てみる価値はあるのではないでしょうか。